なにかの準備をしたりしなかったりラジバンダリ。

26日になる前から色んな人に挨拶しておこうおこうと思うばかりで家から体が出たがらないどころか身体が思考を全開ストライキ状態で動物みたいに生きていた数日だった。会社の書類云々も身元保証人関係を結局母親に丸投げしたり給与振込口座関係を結局母親に丸投げしたりそもそも細かい雑用のほぼ全域を結局母親に丸投げしたりしていて俺は何をやっていたんだかよくわからない。今まで積んだままにしていて手も付けなかった本を二冊読んだ。


自分が家を出るという実感はあるつもりなのだがつもりでしかないのかもしれない。時間の流れやら自分に向けられているなんだかんだのもやもやとした、だが嫌いでもなく引き受けざるを得ない念のような感触が脊髄の上に重なろうとしているのを受け入れているのだなと思う一方で、そう思うこと自体がそんななんやかんやを受け入れずにスウェーとバックステップで逃げ続けていることの兆候なんだという気もする。リングは狭くて逃げきれないと思うのだがそれもわからない。とにかく肩のあたりが重い。


無理やり言葉にすれば「この家に帰って来れるだろうか」なのだがそれではぼろぼろに抜け落ちていすぎて無意味。と同時にそれすら無理なのだった。俺の乖離は俺にとってのこの家を変えてしまってもう戻せなくなるだろう。それは日々起こっているのだとも言えるが。


自分が剥がれたあとの「我が家」を思うとほとんど一つのイメージしか浮かばない。願望でも忌避でもなくぼんやりと運命的に愛犬と祖母のどちらが早く死ぬのだろうかと思う。離れることは恐くない。だが死に目に会えないかもしれないと思うとぞっとして、脳がそれ以上はやめる。


思えば俺はリアリティの伴ったものとしての家族の喪失を経験したことがない。幼いころ死んだ二人の祖父に対しては少なからぬ時間と何かを共有していたにも関わらず彼らの死に対して強く思うところはない。それは自分が幼かったからかもしれないし、古い記憶が再配置され尽くした結果かもしれないし、実は単に俺が彼らからの恩に外見だけ世間体で整えた無関心で返すような屑だからかもしれない。いま言えるのは俺は彼らからの愛を感じていたし、というかいまも感じている。生死の区切りに意味がないというより彼らの愛が時間を越えた守護霊的なものとして知覚されていて、味もそっけもなく分析してしまえばそれは俺の愛された経験だの承認の経験だのなんだろう。同じことだが。


話が逸れてきたように見えるが逸れていない。
旅立ちだの巣立ちだの一人立ちだの人生の転機だのという凡庸だが有用な語彙にこの経験を収斂させるのは簡単だと思っていたしだからこそすまいとまた斜に構えようとして、しかし今、簡単であるなしの前に収斂できているのかどうかがわからない。
受け入れるとはどういう行為なのだろう?
俺が何か受容しているのかしていないのかは俺の変化に顕れるのだろうと思うが、受容した未来の俺も受容していない未来の俺も、ともに自分が受容したとも受容していないとも認識できるだろう。視点自身が変化している以上思い込みなのだ。
では誰が変化しない視点をもっているのかと考えて、当然誰もいない。
このグレーの雲の海に泳ぐ誰もがどこを泳いでいるのかわからない。


何の慰めにもならない結論が出て、それが慰めになったのか、これ以上書くのはやめようという気になった。
思えば、誰にもさよならとは言わなかったな。