「鋼鉄プリンさんへの応答」に応答する

Foucaultlian君の「鋼鉄プリンさんへの応答」*1に応答する。

まあ正直、前回のエントリはまだまだ『無能力批評』を読み込めていないときのものだったので(今は読み込めているのか、と問われると困りますが(笑))、書評会に追われつつ四苦八苦しながら書いた結果、誤解を招きそうな書き方になってしまったなーとちと反省しております。

その上で反論しておく。

しかし、有島/mojimoji氏には根本的な違いがある。mojimoji氏の盲点は、「勝ち組」である自分の金銭や生活財を、卑近な他者に分配する可能性が真剣に考慮されていないことです。「家族のため、親のためだから今の生活水準維持は仕方ない、棄てられない」という論理が、あらゆる「勝ち組」が卑近な実行をスルーするために最後に口にする自己正当化だ、という失語と痛みを通過した傷痕と翳りがないのです。自分や家族の生命が奪われる、と本気で信じていない。この「安心」自体が、生活ゾーンの分断からもたらされているのに。(略)
 滅私奉公せよ、と言いたいのではありません。ぼくにはそんな資格はない。ただ、「黙って死んでくれ」「弔う」「感謝する」と口にする前に、まず自らが試みうる卑近な事柄が、山ほどある。言葉と実行、理論と思想の一致を無限に目指し続けること――その永久に解消不能な矛盾を分裂的に生きながら、その上でなお「書く」ことです。

ここだけ引用すれば、確かにプリンさんが考えるように、「家族のため」「今の生活を維持するため」という名目の下、経済的弱者に対する自らの財の再分配の可能性を一切考えないmojimojiさんに対して杉田さんがそれを厳しく非難しているように見えるし(僕自身、ここまではそのように読んで間違っていないと思います)、それゆえに杉田さんがmojimojiさんのような「勝ち組」に対して自らの生活の維持も厭わない再分配を要求しているように見えなくもありません(そして、そう読めるのなら、プリンさんの「責任倫理」に対する思い入れは妥当なものであると言えるでしょう)。

しかしながら、そのように考えると、上記の引用においてどうしても腑に落ちない部分が出てきてしまうのです。それは杉田さんの次のような言及。

滅私奉公せよ、と言いたいのではありません。ぼくにはそんな資格はない。

つまり、杉田さん自身が「自分の生活を崩壊させても経済的弱者を支援せよ」という規範的言明を言いたいわけではないと言っているわけです。

「杉田さん自身が「自分の生活を崩壊させても経済的弱者を支援せよ」という規範的言明を言いたい」のだとは別に俺言ってないよ。
滅私奉公〜の下りを引用している時点でその程度のことは自覚しているし、エントリ末にp122からの引用、

ナイーヴな人――自分はもうナイーヴではないと信じ込めるほどナイーヴな人――は、手もなく、誰かの華々しい行動actionや自己放棄に心酔し、いかれてしまう。しかし、真の凄みは、無名の他者/無能力者たちの地味でありふれた日々の営み、うんざりするような日常の行為actの中にある(生活の地殻から、マグマのように複成的に噴出する実行にこそ、変革の強度が宿る)。(略)「運動とは、決して特別な人々が行うものではない。しいて言うなら、最も平凡な人間が、平凡に生きていきたいと願った時の願いの姿なのだ」(内田みどり[1994])。

これを転載しているのは、Foucaultlian君が指摘するように、ここで杉田さんが「生活維持・再分配しない/生活崩壊・再分配する」という二元論的図式を「脱構築」したいからだと言うのを読んだ上でのもの。
「自己犠牲をしてでも再分配する」ということこそ、ここで杉田が引用する「華々しい行動action」に他ならないが、しかし真の凄みが宿るもの、変革の強度が宿るものとは無能力者たちのうんざりするような「日常の行為act」ではないかとp122で杉田は提示している。
この引用の意図を考えれば、俺が単純な二元論的図式で本書の趣旨を理解していないということはわかってもらえまいか。


まあその誤解を招く原因になったのは、エントリ中での「行動」という言葉の雑な使い方にあったのは確かなので(上に示したことを前提に読めば、「行動が即「自己犠牲=再分配」を指しているのではなく、複相的な意味を持っていることが読めると思うが)、そこは謝罪しておく。


それから昨日も言ったけど、

むしろ杉田さんが「見直せ」というのは、上記のようなmojimojiさんを始めとする「勝ち組」の論理の背景にある「生活維持・再分配しない/生活崩壊・再分配する」という二元論的図式ではないか―なぜなら、このような二元論的図式を所与のものとすることが、「勝ち組」たちに自己正当化の余地を与えているのだから―そして、そのような見直しの上で、経済的弱者の惨状に対して「沈黙」を守ることができず、何らかの「応答」をした人間は皆(僕も含めて)、そのような自分の言葉と実行の一致を―決して達成し得ないものであったとしても―目指す「責任」があるのではないか、そう杉田さんは言いたいのではないでしょうか?このように考えれば、上記の引用にも出てきた杉田さんの言及がすっきりと腑に落ちます。

この箇所の

経済的弱者の惨状に対して「沈黙」を守ることができず、何らかの「応答」をした人間は皆(僕も含めて)、そのような自分の言葉と実行の一致を―決して達成し得ないものであったとしても―目指す「責任」があるのではないか

この「応答」の理解は、
経済的弱者の惨状について「沈黙」できなかった=格差社会是正すべしな言説を放ったという「応答」、ではないんじゃない?

mojimoji氏が何もしていない、とは全く思わない。ただ、「黙って死んでくれ」と書くにもかかわらず自らは真に「沈黙」できず、「何もしない」と明言するにもかかわらず言葉上で無償の「応答」だけはせずにいられない、その重層的な「弱さ」の中に最悪の罠がある、と思うばかりです。そして過去に一度でも「応答」した人間は、これとは別の論理と実行を探る以外ないのではないか。

(p47)
「応答」の出てきた箇所がここである以上、それは
何もしないと明言するにも関わらず「俺はお前に何もしない」と応えるということ、それがわずかばかりの贖罪であるかのように、応えのその無意味さにも関わらず応えてしまうということ、だと思う。
それこそ「何も出来ない」上に「自分の『罪』を意識せざるをえない」という重層的な「弱さ」なのだ、と俺には読める。

このような僕の解釈が正しいとすれば、自分の生活を投げ打つことはできないという「弱さ」を抱えながらも、できる限り「貧困」について考え、それを実行していく姿勢を大事にしたいという僕の姿勢は、杉田さんのそれと大差ないように思います。その限りにおいて、僕にはもはや杉田さんの言う「責任倫理」に反発する理由はありません。

ま、あの地下鉄のときの話はもう忘れてくれていいです(笑)
ぶっちゃけあのときの会話は、まだ読み込めてない+喋るのが上手くない+ほろ酔い+読んでない相手に色々言われて意地になってた、の四連コンボでしかないので(ボム)


ほんで

因みに余談ですが、この「誰に赤木智弘をひっぱたけるのか?」という文章の主なテーマは鋼鉄プリンさんが引用していたような再分配に関する部分ではないように思います。むしろこの文章のテーマは「戦争希望」を謳っておきながら、「『しかし、それでも」、『それでもやはり見ず知らずの他人であっても、我々を見下す連中であっても』、他人が戦争で苦しむのを見たくはない」*5とする赤木さんの「優しさ」や、赤木さんとそのご両親との確執から赤木さんの「抽象的な戦争希望」を紐解こうとすることなのであって、その観点からも鋼鉄プリンさんの感銘の受け方はちょっと「不自然」なのではないかと感じました。もちろん、「不自然」だから悪いと言っているのではありませんが、それが上記のような「曲解」につながったのではないかとちょっと考えたりします(もちろん、僕の方が「曲解」である可能性も未だに捨てきれませんが(ボム))。

まあ俺が「曲解」しているかどうかは以上を読んでもう一度判断してもらえればな、というところ。
俺も別に赤木論文への主テーマが「再分配」だとは思ってない。
が、読んでいてより実感だったり、自分自身に照らしたとき思うところがあったのは引用したような箇所だったということ。


そして極端な「自己犠牲=再分配」に至らずとも、「うんざりするような日常の行為act」を行うということ、「自分の言葉と実行の一致を――決して達成し得ないものであったとしても――目指す」ということ、それもまた「自分の『血肉』を割」くこと(=「行動」)だと俺は思う。
華々しいactionにまで至らずとも、安易な自己正当化に流されないよう目の前を見つめ続け、行為actするということだけで、十分に苦痛でありうる。
何より、一度そこに自らの「血肉」を開いたら、もう傷を塞ぐことはできなくなる。華々しいactionでないがゆえに、actする人々は心を欺瞞の泰平にまどろませておくことすらできない(まあ誠実ってそういうことだよなとは思うけど)。


ま、何はともあれ、この本が「面白い」ということを共感してもらえたのは良かったよ(笑)