【書評】杉田俊介『無能力批評』(大月書店、2008年

フリーターリブのために ――労働・自由・生命――

 非正規雇用者や貧困者は「もっと働けるはずだ」「本人の努力が足りない」と批判されます。フリーターは、正規職員で働けるのに、アルバイトでしか働かない。ニートやひきこもりは、働けるのに、働かない。そういうふうに。
 しかし、かれら・彼女たちは、本当に「できるのに、しない」(森岡[1988a])のでしょうか。
 私の友人Aは高校卒業からひきこもって15年以上になります。コンビにや本屋で少しバイトしてはひきこもる、をくりかえし、たまに思い立って就職活動を再開し、いくつか面接で落ちて、精神的にダウンする。母親がカウンセリングに連れて行こうとするけど、本人は行かない。ただ、完全に部屋に閉じこもるわけじゃなく、友人が呼べば遊びにでるくらいはする。……と、色々ぐるぐる試したすえに、結局自宅から出られなくなりました。
 引越し後はAと会う機会もほとんどなくなりましたが、今でもときおり考えます。彼はもっと頑張れば自立できたんでしょうか。働けたんでしょうか。どうなんだろう。
 Aには、自分で就労自立が「できる」か「できない」か、よくわからないんじゃないか。
(略)
 Aは、十分に努力したけれどもダメだった、のではありません。自分が十分に努力したのかどうか、それがわからない。でも貧困とはまさにそういうものではないでしょうか
(略)
 限界状況にある当事者からは、「働けるのに、働かない」「できるのに、しない」とは言えません。正確には、できる/できないの境目がわからないのです。(略)自分が悪い、でも、社会が悪い、でもない。すっぱりとわりきれない(川崎昌平[2007])。

(pp17−19)


就職活動をやってると(特にそこで「負け」が込んでいるがゆえに)よくわかるけど、「シューカツ」で「成功」した学生とそうでなかった学生の差異は、デキる奴/デキない奴、“ではない”。
ラインは「(そこそこの)内定が取れた/取れなかった」という結果論でしか引かれない。もちろん、受かる奴と落ちる奴、まったくランダムなわけではない。複数の難関企業から内定を取る人間も存在する(らしいですよ。へー)以上、何かしらの点で「差」は、ある。
ただ、結果が出るまではもちろん、結果が出たあとでさえ、自分が何か優れた人間であるのかは依然“わからない”。ただそこに横たわっている結果を眺めて、そう思い込むのみである。
一方、結果が出ていない人間は思い込む材料がまずない。「今はなくても、あとで(成功の)結果が出るかもしれない」こと自体も、可能性以上のことは“わからない”。


判断の基準がぼんやりと宙を漂うまま、結果だけが二元論的に弾き出される。そこでは自己責任の全面化は成立しえない(一方で、自己責任の全否定もまた成立しえないが)。

 では「制度が整えられていればいい」のでしょうか。しかし、こういう正義の言葉は、時として非常に暴力的です。支援が必要な人にも支援者にも。なぜか。規範的な「正しさ」が実現するには長い時間がかかるので、今ここにある当事者の痛みや悲しみは手付かずに放置される、というだけではありません。もっと悪いことに、現場の矛盾・葛藤の中から本当に価値あるものが出てくる、という可能性が、先取り的に抹消=無痛化されてしまうからです。

(p22)

ことは暴力にかかわります。文芸評論家の大塚英志さんは「「ヲタ」は「サヨク」化するか」([200704])等で、「世の中は左傾化しつつある」と繰り返し述べています。実際プレカリアートの自生的な大衆運動は、各地で同時多発しています。(貧乏人大反乱集団/反戦と抵抗の祭/五月病祭・どぶろく祭/など)。かつてのだめ連やフリースペース運動ともゆるやかにつながるものでしょう。
 ただ、これらを素直に喜べるでしょうか?
 それらはずるずるべったりの「のっぺり反逆」(丸山[1960]131p)であり、相変らず「すべてが騒々しいが、同時にすべてが小心翼翼としている」([1946]19p)だけかもしれない。(略)ファシズムは、歴史をふりかえると、「右」も「左」も信用できない、というラディカルな「能動的・行動的ニヒリズム」から醸成されてきたものです(山口定[1979])。(略)
 私は、現在の多様な労働=生存運動の文脈に、もう一度、《私の個人主義》という自由の価値を差し入れてみたいのです。

(pp25−26)


「政治家や学者はアテにならねぇ! 俺たちが行動するしかない!」という切実な行動主義に対して、「お前ら危ないよ」、と。
プレカリアート運動については雨宮処凛『生きさせろ!』くらいしか読んだことがなかったので、けっこう「こいつら最高にアホだな。いいぞもっとやれ」くらいにしか思ってなかったんだけれども、そこに冷静に突っ込まれて、唸ってしまった。
確かに。


ただ一方で、彼らは「それだけ」でもないのでは? とは思う。
何が違うのか今の俺にはわからないが。

 アレントならば、現在のような生存権運動を、容赦なく批判したでしょう。実際アレントは1960年代、ラディカルな黒人運動や学生運動を(多少の留保付きで)批判しました。そんなものは政治的な権力の樹立を破戒する野蛮な暴力でしかない、と(『暴力について』[1969])。アレントは本来の「革命の目的」は、能動的な「自由の創設」にあり、19世紀以来の社会運動は、それをたんなる生活の貧窮(生命の必然)からの解放・反乱の水準へと切り詰めてしまった、と苦々しく書きました(『革命について』[1963])。

(p27)

 討議倫理の前提は「討議と呼ばれる特殊な議論状況のもとでは、関係者すべてによって同意されうる規範および規範的な制度配置のみが妥当である」(ハーバーマス)というものです。
 他方でアレントは、理性的な合意形成を目指すことではなく、多様な意見が多様に交錯し激突する過程自体に、公共性の条件を見ました。
 しかし、政治的空間内での平等の手前に、生活・生存の不平等があるのではないか。空間内での平等は、それを見えなくする。討議倫理では、範囲の問題、つまり誰が討議の中に入れるか、がつねに困難を強いる。

(pp32−33)

 移住や出入国を管理するゾーンでは、普遍的な人権という価値と、特定の共同体の価値の間に、強い矛盾と緊張が生じます。しかしベンハビブは、この矛盾と緊張の現場から討議・議論・熟慮を練り込み、ポテンシャルを高めていくことこそが、民主主義の本当の価値だ、と言います。
 外国との境界線だけではありません。(略)国内の病者・障害者たちもまた、普遍的人権/国民的権利の間の、政治的な成員資格をめぐる曖昧な境界線に立たされているわけです。そもそも、難民という言葉は、狭義の政治難民だけではなく、災害・飢餓・貧困などで住む場所を追われた人々を総称します(杉田[200612]、市野川+小森[2007])。内部難民、経済難民とも言われます。いわゆるネットカフェ難民マック難民のみならず、一定の経済的貧困層は等しく難民と呼ばれる。国籍喪失の経験を経たアレントは、国籍上の地位の喪失は、たんに市民権のみならず、あらゆる権利の喪失に等しい、と訴えていました。だからアレントは「権利を持つ権利」が絶対に不可欠だ、と言ったのです。

 われわれの労働=生存運動は、この民主的反復のポテンシャルを――討議(活動)の水準のみならず――労働・仕事・生命の水準で底上げしつつあります。
 アレントとは逆に、むしろ、政治/生活(生存)の決定不能性のゾーンからこそ、その拡張と社会化を通してこそ、アレント的な公共性とは違う、本当の《公共性》の光がわれわれの社会の隅々にまであまねく差し込んでいくのではないか。社会学者の大澤真幸さんは、かつてベンヤミンが『暴力批判論』で述べた「神的暴力」とは、「殺人の禁止」という倫理的命令が迫る矛盾と「孤独の中で闘う」者を強いる暴力のことだ、と言います。(略)それは、「責任倫理」(結果を出す責任、また現実の結果に対する責任)を「心情倫理」(意図の純粋性への自己満足)に解消することを許さないことです。すると公共性とは、決定不能性の渦中で、もがき、惑い、無力さの中で自分を「ひとり」に個体化していく過程を指すのかもしれません。しかしそれこそが、あの言語的・経済的な神話的暴力に対抗するための暴力、つまり神的暴力の光となりうるのではないか。

(pp34−35)

「それは、「責任倫理」(結果を出す責任、また現実の結果に対する責任)を「心情倫理」(意図の純粋性への自己満足)に解消することを許さないことです

これって重いよ……。
「よかれと思って」とか「善意の上での行動」に対して、その善意を免罪符的な、無条件肯定への切符とは認めないということ。
「純粋な気持ち」だろうがなんだろうが、結果に対する責任、そして“結果を出す責任”を取れと。


結果に対する責任、の方は、ちょっと「ハガレン」的ですね。
結果を出す責任、の方は、これ、「でも、実際には行動しない人」への、断罪。


もちろん、ガチで「実際に行動」してしまうと、自分の/家族の生活が崩壊してしまう。しかし、「自分の/家族の生活の維持」を理由に、私たちは(特に彼らに共感・同情する私たちは)行動しないことを許されるのか、という問いに、杉田は「んなわけねぇ」と答える。
以下にそれが示されている。

誰に赤木智弘氏をひっぱたけるのか? ――「「丸山眞男」をひっぱたきたい 三一歳フリーター。希望は、戦争。」に応答する――

 あなたの基本的な要求は、次の通りでした――社会の純粋被害者である私の生活と魂を救ってくれ。金銭か安定した仕事を与えてくれ。というか、私はすでに真面目に働き続けているではないか。ならば、社会の仕組みの側に、根本的な不平等があるはずだ、と。この「要求」に言葉で批判・説得・論駁はできません。なぜなら、自分には他者と十分な議論をおこなう余裕、「考える」余裕自体がない、その「土台」(金や余裕)をこそ分配してくれ、とあなたは主張するのだから。(「続ひっぱたきたい」121p)。あなたの前提を受け入れる限り、人は、この「責任」を丸ごと「受け止め」るしかありません。そして「生活に対する精神的な余裕や、生活のためのお金」を具体的に分配する以外ない。たとえ5000円でも。しかも今すぐに。それ以外はすべて誤魔化し、言い訳になってしまいます。
 では、あなたは本当に申告通りの生活弱者、純粋被害者なのか?――多くの人があなたの前提自体を信用しません。よくある「ニセ弱者」論争です。(略)しかし、貧困者支援の現場感覚からすれば、「もっとできるだろう?」「自分の責任だろう?」という批判は無意味です。

「働く意欲」によって両者を分かつ分割線は、そんなに強固なものなのだろうか。生の可能性を縮減されるただなかで、「でも働くしかない」と思うことと「もう働けない」と思うこと、あるいは「働きたいと思い、体が動くこと」と「働きたいと思っても、体が動かないこと」とのあいだには、いかなる違いがあるのだろうか。(湯浅誠+仁平典宏「若年ホームレス――「意欲の貧困」が提起する問い」)

(略)
 しかし問いは、もっと卑近な水準にある。あなたが既成左翼の言行不一致を叩くときの基本感覚は、こうです。「やっぱり権利を「守る」ことを前提に考えているから、口先だけ立派でも何か自分たちが不利益を受け入れるという覚悟とか全然ない。たとえば、ワークシェアリングとかベーシックインカムっていうことに対しても、左翼の人がワークシェアリングしようって言った場合、自分の仕事を譲るかといってもたぶん譲らないし、ベーシックインカムのために増税したらどうなんだって話をしても、それには応じないと思うんですよね」(雨宮氏との対談、39−40p)。かりにも平等や平和を口にするなら、どんなにささやかであれ、まず、自分の卑近な既得権を切り崩す痛みから始めるべきだ、それこそが本当のシンギュラーな「責任」のはずだ、と。

(pp43−45)

しかし、有島/mojimoji氏には根本的な違いがある。*1mojimoji氏の盲点は、「勝ち組」である自分の金銭や生活財を、卑近な他者に分配する可能性が真剣に考慮されていないことです。「家族のため、親のためだから今の生活水準維持は仕方ない、棄てられない」という論理が、あらゆる「勝ち組」が卑近な実行をスルーするために最後に口にする自己正当化だ、という失語と痛みを通過した傷痕と翳りがないのです。自分や家族の生命が奪われる、と本気で信じていない。この「安心」自体が、生活ゾーンの分断からもたらされているのに。(略)
 滅私奉公せよ、と言いたいのではありません。ぼくにはそんな資格はない。ただ、「黙って死んでくれ」「弔う」「感謝する」と口にする前に、まず自らが試みうる卑近な事柄が、山ほどある。言葉と実行、理論と思想の一致を無限に目指し続けること――その永久に解消不能な矛盾を分裂的に生きながら、その上でなお「書く」ことです。

(pp46−47)

 「殺すな」では足りない。あなたは「殺すな」というヒューマニズム=「平和」の欺瞞自体を憎むのだから。正確には、誰も殺していない顔をしつつ「平和」の名のもとに「弱者」を緩慢に排除し殺していく現状をこそ、根こそぎにしたいのだから。(略)
 では「子どもらを被害者にも加害者にもさせない社会へと変えるべき」と言えば済むのか。――それでは足りない。そんな「正義」の言葉自体が、一定の何かを持てる者の余裕の表れだから。かつてドストエフスキーが軽蔑しぬいたように、目の前の貧者を素通りし未来の万人の幸福を目指すと嘯く自称正義の人が本当に未来の誰かのために働けるはずがない、(略)、目の前の他者/未来の他者を自在に切り分けられるという観念的操作こそが物質的余裕から来る認知の歪みと道徳不感症なのであり、ぼくらはむしろ、他者の諸水準の矛盾と逆立の渦中で動揺転倒を強いられながら、暴力の無限連鎖を断ち切っていくしかない……。
 すると問いをこう進めてみます。
 人が本当に無力である限り、誰かを殺してもよい、そう心から信じぬいてよい、と。誤解を恐れず、はっきりそう認める以外ない。(略)しかし、この焼け野が原の先に、どんな言葉がまだあるのか。(略)実際、赤木さんのいう「しかしそれでも」「彼らが戦争に苦しむさまを見たくはない」には、その「殺してもよい」「戦争してもよい」の先へ続く道を照らす曙光=予兆が差し込んでいます――他人を殺してもよいと本当に心から信じた人こそが、むしろ誰を殺すこともできない、それをしないのです。なぜでしょうか。わかりません。でも赤木さんが未来へと押し開くべきは、このねじれた優しさではないか。

(pp52−53)

無能ノート

 アガンベンは、アリストテレスの古典に遡って、素朴に、問う――働かざるもの食うべからず? でも「人間の仕事」って、何だったろう、そもそも?

この(仕事について、あるいは人間の仕事の不在についての)問いかけにおいて問題となるのは、仕事のない生きものとして、つまり特有の本性や使命の欠けた生きものとしてあらわれる人間の本性それ自体である。(略)そうなると人間は、いかなるアイデンティティやいかなる仕事によっても汲み尽くしえないような、純粋な可能態=潜勢力の存在となろう。([2005])

(p87)

自立と倫理

 わたしには、野崎らのいう漸近的社会改良的な正義(生が十全に肯定され保障されるように制度が変わればいい、という規範的批判)と、従来の神学的な「とにかくあらゆる生命には尊厳がある」=「生命の尊厳派(SOL)」の違いが、正直、今もよくわかっていない。確かに、ある種の人々が特別に矛盾葛藤に苦しまねばならない理由もまた、ない。しかし、そのように述べてしまえば、自己と他者の間の具体的な関係性/敵対性/相互変容の可能性までもが堕胎されていく。(略)当事者にとって「すべては本人・家族の自己責任だ」と同程度に「制度が変わればいい」が赦し難い暴力として感じられるのは、何も「言っていることは規範的に正しいけど、実現可能性がない」「遠い未来にしか実現しないなら現在の苦境には意味がない」から、だけではない。それらが正義の名を偽装した現実の平板化と無痛化でしかない、と直観的にわかっているからだ。

(p119)


上の「フリーターリブのために」のところでも述べたけど、やはりこの“結果を出す責任”が、俺の意識に重く引っかかるものとして残る。


「そういった社会の矛盾や『現実』を学び、考えた者を社会に送り出していくことで、社会を変えていく」というIZUMIゼミ的正義は、「とにかく目の前のこの惨状をどうにかしてくれ」という、今まさに消え行く、血文字のような切実な叫びに答えられるのか? それがわからない。
ゼミの役割はそこにない、で回避する?
しかし、じゃあその「役割」、誰か正式な担当でもいるのか? この社会に。


そして、Foucaultlian君が言うような「僕たちだって明日はわからない」、それが正しいのはわかる。俺なんて未だに内定がありませんが何か?
しかし、俺たちが学んできたのはその言説の「正しさ」をこそ崩す、そのための知恵だったのでは? 「誰もが不安定なのだ」ということだったのでは?
そこで、どこかに弱者を苦しめる(要因を作り出している)「敵」を(ゆるやかにでも)戯画化・象徴化し(「ピョノンのお手洗い会長ボム!」)、一方で「俺たちも同じく苦しんでいるんだ」と、「弱者/強者」の二元論的構図に(無意識に)落ち着こうとすること、落ち着きかねない行いをすること、それを欺瞞だと杉田は突いてくる。


むしろ、そこで「連帯」の名の下に「そこにあったはずの何か」を捨象していくのではなく、「弱者」の間に、支援者と被支援者の間に、敵対性の楔を打ち込んでいかねばならない、それは「他者」に対する、「他者」との間での、この「私」の断絶的なまでの無力さに立ち尽くすこと、そこから生まれる可能性に目を向けることでもある、と杉田は述べる。


じゃあ、俺は何をすべきなんだろう、と考えると、戸惑う。
わからない、ふりをしたくなる。
上でも書いたけど、ガチで「実際に行動」してしまうと、自分の生活が崩壊してしまう。それは、はっきり言って、嫌だ。
与えられるものを減らされるのはまだなんとかなる。我慢できる。しかし、今あるものを奪われるのは、嫌だ(「数値」は同じなのに、この差はなんなんだ?)。
これだけIZUMIゼミに関わっておいて、俺にできたのはせいぜい天神でビッグイシューを買うことくらいだった。それでも「高い」と思ってしまうくらい「せこい」人間の俺に、何ができるんだ?


「貧困している人々がいる!」と訴えるくらいできる。そのシステムの矛盾を学び糾弾する……OK。
しかし「自分の『血肉』を割いて何ができる?」と問われたとき、足が止まる。
そこからの一歩はキツい。

ナイーヴな人――自分はもうナイーヴではないと信じ込めるほどナイーヴな人――は、手もなく、誰かの華々しい行動actionや自己放棄に心酔し、いかれてしまう。しかし、真の凄みは、無名の他者/無能力者たちの地味でありふれた日々の営み、うんざりするような日常の行為actの中にある(生活の地殻から、マグマのように複成的に噴出する実行にこそ、変革の強度が宿る)。(略)「運動とは、決して特別な人々が行うものではない。しいて言うなら、最も平凡な人間が、平凡に生きていきたいと願った時の願いの姿なのだ」(内田みどり[1994])。

(p122)


(なんかもうワード化するのめんどいから、今月の書評、これってことでダメかなぁ。「こっちに書いてるからみんな見てくれ」で(ボム))

*1:有島武郎「宣言一つ」(1922年)の言葉と経済学者mojimoji氏のhttp://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20070322/p1を対比して