西村勝彦『大衆社会論』(誠信書房、1969年(新訂版。旧版1958年))・要約なんだか抜粋なんだか

Ⅰ 大衆社会の課題
 今日では、大衆社会と呼ぶにふさわしい現象がわれわれの前に現れている。
 大衆社会という語が用いられるとともにそれが強く認識され始めたのは、ファシズム自由主義的民主主義に代わって現実化した1930年代に入ってから。従って発想としては危機感と結びついており、しかもファシズムへの危険性はWW2以降においても依然脱ぎ取られていない(p1)


 しかし、最近大衆社会についての研究が急に活発化するとともに一躍ジャーナリズムの舞台に乗せられるに至ったのは、大衆社会論とマルクス主義の対決を契機とする(p2)


 一部の論者は、マルクス主義ではもはや20世紀の大衆社会は捉えられないのではないか、と考えている(p2−3)
その論点

  1. 大衆社会を特徴付けている機械文明は資本主義/社会主義という体制に関わらない普遍的なものであり、これによって形成される人間の疎外も体制によらない一つの宿命ではないか
  2. 大衆社会に現れる現象(新中間層としてのホワイト・カラーの成立とその重要性、意識の変容、生活水準の向上など)は、マルクス主義の思想で唱えられたものとはまったく異なるのではないか
  3. マルクスの予言したような二大階級の闘争や革命の論理はもはや成り立たないのでは?


 大衆社会といわれる現代の状況は、マルクスが分析した19世紀の資本主義とかなり異なった様相を示している(p3)


 WW1から今日に至る一連の歴史的事実の中で見逃せないことは、機械技術の驚くべき発達と、しかもそれが小数の人々の利益のために、また破壊のために利用されたことだった。そこに大衆の茫漠たる不安が覆いがたいものとなる。18、19世紀の人々が期待していたような社会進歩の方向とは逆の現象が現れてきた。かかる状況の中に大衆社会の問題が見出される(p5)


 現代は自由主義的民主主義およびそれを支えていた伝統的価値体系が解体して、新しい価値体系がつくられてゆく転換期にあるといえる。
 大衆社会の問題は、このような新しい社会の生成に伴う危機現象ともいえるが、一方では独占資本主義により、他方では社会主義への恐怖によるファシズム反動の可能性によって、その危機が倍加されている(p6)


 技術と政治が結びついて権力体制を作り上げたファシズムにおいて、技術と人間の倒錯が激しくなり、官僚制やマスコミのような社会技術までが人を支配する手段として悪用されてから、それは極に達した。
 マンハイム、フロム、ラスキ、その他新フロイト主義といわれる社会心理学者たちは真正面からそれに取り組んで批判し、人間性を問題とした。今日の大衆社会論も、発想的にこれと無関係ではない(p6)


 もちろん、現代の危機は技術が人間を追い越して角に発達しすぎた点に求められるとしても、一部の大衆社会論者が強調するごとく、技術にのみ責を負わせることは正しくない(p7)


 独占資本主義社会では二重の疎外化の方向に拍車がけられているから、大衆社会を体制の差異を無視して論ずることは疑問である(p7)


 要するに、大衆社会は、市民社会の発達の過程から変貌してできた新しい社会形態であり、危機と矛盾が露呈化した社会である。そして大衆社会の矛盾は、実は市民社会を特徴づけたいくつかの要素の中に胚胎している(p7−8)


 合理性(官僚化、マスコミ)、自由化と民主化、都市化といった近代の諸原理の帰結が、合理性と非合理性のアンビバレントな状況を作り出し、それが顕著となったのが現代の大衆社会においてである(p7−11)


 教育の普及と選挙権の拡大による普通選挙制の実施は、公衆を大衆に変えた。そして、体制外的な存在を続けてきた多数の一般大衆は、体制内に包摂されることになった(p10)


 公衆を担い手とする自発的結社の解体は、いやおうなしに人々を大社会のなかに引き入れ、大衆を砂のごときばらばらなものに変えてしまうとともに、さらにこれを巨大社会の組織網の中に捕らえる結果となった(p11)


 近代社会は、産業組織は著しく合理化されたが、他面では、第一次的絆が断ち切られて、人間は孤独・不安・無力という心理的カニズムで捉えられる衝動的人間と化した(p11)


 一方では巨大技術の発達とそれに対応する人間の専門化、他方では第一次的集団に認められるような人格的絆を断たれることから、結果として人間の原子化と個性化が現れる。この二つの性格があいまって、大衆社会の人間像を特徴づけている(p12)


 今日の大衆的人間は、孤独感をもち、たえずふあんに脅かされ、技術に対してはあまりにも無力な、政治的知識を持ちながらそれに無関心な、いわゆる外部指向型の人間という性格をもっている(p13)


 一方では大量の人間群が、そのときどきの刺激や感情で行動するような情緒的大衆に地ならしされ、他方では、技術が小数の人々に独占されるという分極化の傾向は、当然、権力の集中となって現れる(p13)

 
 大衆社会は、巨大技術が巨大権力のための手段と化した社会であり、それを場として大量生産は大量消費と結びつき、官僚制機構によって巧妙なリーダシップが成し遂げられ、かつ、管理というだけでなく、階級闘争を抑圧し、緩和させる機能さえ資本主義社会において果たしている。マス・メディアも、大衆を自由に操り、一定の方向に誘導させるための武器と化している(pp13−14)


Ⅱ 大衆社会の成立
 20世紀の社会、とくにファシズム台頭の時期に、大衆社会という問題状況が作り出された(p18)
 権力政治の可能性が、WW2後の今日においてもなお資本主義諸国に強く胚胎しているところに、大衆社会論の問題意識が現れたゆえんがある(p19)


 大衆社会の危機はテクノロジーの過度の発達に基づくものと言えるが、それはまた、合理性を過度に尊重した近代市民社会と無関係ではなく、その淵源は遠くプロテスタンティズムの精神やルネッサンスを開花させた都市の勃興にみることができる(p20)


 第一次的絆からの開放と自発的結社の解体によって、ばらばらな砂のような個人の集まりに量化した多数の人々は、選良(エリート)に対する大衆(マス)として、マンモス的社会機構の中に引き入れられるとともに、否応なしに、マスコミや官僚制のメカニズムを通して、大衆操作の対象と化した。そこにみられるのは圧倒的多数人口の部分的・誹謗理的人間への転化であり、これが現代の大衆的人間である(p25)


 都市化は、自由という美しい飾りでまとわれながら、必然的に無力、懐疑、孤独、不安の感情に追い込まれ、政治的無関心アノミー的現象を社会の前面に押し出すこととなった。
 大都市こそ大衆社会といわれるにふさわしいものがある(p27)


 近代の生産組織は、技術的見地からは合理化がいっそう進んできたといえるが、これによって人間が人間的性格を喪失することからすれば、実質的に合理的であるとはいえない。しかし、資本主義の成立期においては、二つの合理性は矛盾することなく、ある程度の調和を保っていた。その相反が著しく社会の表面に現れてきたのは、資本主義が独占的段階に入った20世紀においてである。
 そしてその時期は、公衆から大衆に変貌し、大衆民主主義の名の下に、エリートと大衆が分化し、小数の人間が近代技術をたくみに利用して、権力の集中と大衆指導・大衆操作の政治的体制を確立したときである。
 大衆娯楽を通して分化の低俗化を促し、人間を情緒的性格に変えていったのも、20世紀の2、30年代に入ってからである。
 その意味で大衆社会は、
 第一に経済的過程を通して、すなわち独占資本の形成の過程として、
 第二に、政治的過程を通して、すなわち大衆民主主義下の権力支配の実態を通して、
 第三に、社会形態の変化と組織機構の拡大化を通して、
 第四に、文化的過程を通して、特にマスコミによる大衆文化の形成とそれに伴う人間心理の変容を通して把握しなければならない(p33−34)


Ⅲ 大衆社会理論の諸相
 大衆社会市民社会の構造変化に伴って現れた転換期の社会
 →特有の危機的性格をもっている。自由が独占的に、合理性の胎内から非合理性を作り出し、古典的公衆の民主主義が大衆民主主義に変えられた過程に、大衆社会の性格は求められる(p39)


これまで一般的にとられてきた大衆社会理論……およそ三つの形態
1.大衆に対し否定的な貴族主義的、非歴史的立場
 ①ゲマインシャフトの優位を認めるドイツ社会学
 ②大衆民主主義を否定的民主化とみなす、古典的公衆民主主義復活派
 ③貴族主義的、カトリック的な立場からの民主主義否定派
2.大衆社会マルクス主義の(言う)矛盾として捉え、大衆化をプロレタリア化の過程として捉えることによって階級の論理と革命の論理を貫こうとする立場
3.大衆社会の矛盾を超体制的性格の、機械文明に由来するものとして捉える立場←今日の大衆社会論の主流(p40−41)


上の諸理論への評価
1.
 ①(ヘーゲルデュルケーム)←歴史に対する考察を欠き、また批判的な判断の目を曇らせている(p41−43)
 ②(ルソー、トクヴィルタルドマンハイム)←公衆へのノスタルジア。今日では公衆を夢見ることはもはや幻想でしかない。(p45−46)
 ③(アリストテレス、ル・ボン、レーデラー、オルテガ)←選良理論。権力政治を肯定。「理想的であった過去の封建制の時代」という色眼鏡によって屈折されたもの(p43−45)
2.
 20世紀の大衆社会マルクスの予言通りの方向を示したか?
 大衆社会における疎外は社会主義社会にも認められるのでは?


Ⅳ 官僚制の問題
 体制外的存在だったプロレタリアートは、教育の普及と選挙権の獲得により体制内的存在となるにおよび、量的にも著しく増大した。この圧倒的多数人口は、異なる諸地域から流入した互いに異質な人間である。(=大衆)(p55)


Ⅴ 権力とリーダーシップ
 大衆社会を高度の有機的統一体に組織化するメカニズムとして官僚制があげられる。
 官僚制は、少数者が多数者を支配するもっとも巧妙な装置である(p71)


 大衆社会における権力のメカニズムは、管理組織を通して巧妙につくりあげられており、大衆操作の技術も、直接的な物理的強制に代わって、象徴などの間接的手段を利用することでいっそう大きい効果をおさめてきた(p80)


 マスコミ環境の重要性が増すほど、人間は受動的となり、大衆市場の一員と化す。大衆社会においては、機械や技術の支配力が増し、これに対する盲目的信頼となって現れる。
 マスコミは、大衆を情緒の雰囲気に追い込み、アパシー化する有力な手段であり、情緒化された大衆を政治的に支配者の意図する方向に誘導する手段である(pp82−83)


 官僚制とマスコミは、大衆社会において、相互に結びついてその威力を倍加させている(p83)


Ⅵ 大衆社会と新中間層


Ⅶ 大衆化と大衆的人間
 大衆はかつての公衆と異なって被支配層であり、種々の管理組織の中の歯車であり、管理の命令系統と規律に縛られた非合理的・部分的人間である(p102)


 確かに今日の大衆にそのような心理的性格があることは否定できない。しかし実際には労働者を含む非エリート層を、一括して心理的カニズムでとらえうるかどうか疑問である。
 大衆の概念に対しては二つのアプローチがある。
 一つは上述の社会心理的アプローチであり、没落ブルジョア公衆から労働者までを消費者・マスコミの受け手として、機械の歯車として無差別に規定するもの。
 もう一つは、マルクス主義に見られるアプローチである、大衆の中核に労働者をおき、大衆を独占資本家に対する被支配層として組織化することを目指すもの(p102)


Ⅷ 大衆社会と人間疎外
 現代人の心理的性格としてはアパシーアノミーが挙げられる。
 大衆的人間を性格づける現象は、多かれ少なかれアノミー的面をもつ(p123)


Ⅸ マス・コミュニケーションと大衆


Ⅹ 大衆文化論


ⅩⅠ 大衆社会・小集団・社会運動
 大衆社会は、産業化および都市化を特徴とし、同時に親密な第一次的絆が絶たれ、自発的結社が衰退した社会である。このような大衆社会的状況を作り出したのは、合理的技術、特に官僚制とマスコミの発展である。
 大衆的人間は、孤独であり、匿名であり、インパースナルであり、政治的にアパシーであり、外部志向型の人間であり、機械の歯車であり、原子化した人間である(p161)


 個人の自由は、自主的な集団に再編成されることで保障される。大衆社会の矛盾を克服する場が自主的な集団である(p163)