辻村明『大衆社会と社会主義社会』・書評

要約

大衆社会現象が現代社会の急所を突く研究分野であるなら、同じアプローチで社会主義社会に対しても分析がなされるべき。そのための材料はすでにある。(p鄯)


第一章
第一節
私がマルクス主義者に抱く疑問とは、彼らが資本主義社会については事実の次元で資本主義社会を批判するのに対し、社会主義社会についてはほとんど事実の究明をせず、専らイデオロギーや理念だけを論じるところである(p4)
それが最も集中的に現れているのがいわゆる大衆社会論である(p5)


大衆社会論を論じる場合に、大きく分けて次の三つの立場がある。

(p6)


これまでの日本における大衆社会論はすべて1と2に限定されていた。つまり日本においては大衆社会論がマルクス主義に傾倒した学者によってのみ論じられてきたというところに大きな問題点がある。
第一に、マルクス主義的階級論を前提とした場合、階級と大衆の関係が曖昧なこと。
第二に社会主義社会における大衆社会現象を不問に付するか、あるいはわずかにしか取り上げないこと(p6)


2aへの批判

  • 松下理論では大衆が階級の特定状況として強引に包摂されるが、するとわざわざ大衆社会を取り出す必然性がなくなってしまう。階級社会論と大衆社会論がどうつながるのか論理的にはっきりしない(p7−8)

2bへの批判

  • 階級社会論的立場と大衆社会論的立場とが無規定のまま共存している(そのためその時々の情勢によって階級社会論的な側面が前に出たり大衆社会論的な側面が前に出たりする)(p11)


大衆社会論はもっぱら資本主義社会を糾弾するための手段に使われている(p13)


第三節
大衆社会あるいは大衆社会現象とは何であるのか。今まで多くの議論が交わされながら、論者によって概念はかなりまちまちであった(p44)
たとえば松下理論は大衆社会を構造的な特徴として捉えるのか状況的な特徴として捉えるのかはっきりとしない(p44)
ある社会の特徴を考えていく場合、その社会の基本的な構造上の特徴と、そこから派生してくる現象の特徴とに分けた場合、松下氏の言う社会形態がどこに位置するのかが不明であるために、大衆社会を捉える指標が場当たり的・網羅的になって明確にならない(p45−46)


概念規定の上から言っても、大衆社会を資本主義社会の上にのみ重ねることは無理(p46−47)


資本主義社会にも社会主義社会にも、また自由主義社会にも全体主義社会にも、共通した社会状態の特徴というのは、結局「近代社会」あるいは「近代化」の進んだ社会の特徴ということになり、大衆社会化」とは「近代化」に他ならないということになる(p49)


もっとも、「近代化」ということの内容自身がまた多岐にわたり、それを問題とするレベルにしても、三つのレベル、すなわち(1)歴史としての近代化、(2)社会の近代化、(3)人間の近代化という側面が区別されるが、「大衆社会化」=「近代化」という場合の近代化は、もちろん(2)の社会の近代化に他ならない(p49)


社会の近代化は政治・経済・社会・文化の四つの側面が更に細分化される(p59)
以上四つの領域でさまざまの現象や原理が挙げられているのだが、そこから抽出できる共通の原理は、「数量化」と「大量化」という二つの意味を含む「量化」である(p60)


「数量化」とは「科学」の大前提であり、そこからは「合理性」「計算可能性」(計画性、能率性、便宜性)といった属性が生まれてくる。そしてこれらの性質を総合的に具象化しているのが「機械」に他ならない(p61)


「大量化」の側面は政治・経済・社会・文化のあらゆる面での大衆の登場を促し、「大衆参加」は大衆の意向を無視しえないという意味で「大衆の尊重」「人間の解放」をもたらし、あらゆる面での「民主化」を結果する(p61)


「量化」という一元論にまで収斂させることはあまりに抽象的すぎるため、「工業化」「官僚制化」「民主化」「富裕化」という四つの柱で「近代化」を規定しておくのが妥当である(p62)


よく指標に持ち出される「都市化」は「工業化」「富裕化」などの随伴現象であって、近代化の独立変数であるよりは、むしろ従属変数である(p62)


「近代化」と大衆社会を関係づければ次のようになる

  • 大衆社会の第一次的構造条件……「工業化」「官僚制化」「民主化
  • 大衆社会の第二次的構造条件……「富裕化」
  • 大衆社会現象……「人間の近代化」や大衆的人間にまつわる現象

(p63)


社会の近代化はそのまま大衆社会の構造におきかえられるが、人間の近代化は大衆社会現象とは必ずしも対応しない(p63)


第四章
生産手段の所有形態という下部構造に重点を置くマルクス主義においては、歴史の方向は「資本主義→社会主義」という形で表されるが、言論の自由と言う上部構造に重点を置く西欧自由主義の立場からは、この歴史の方向は「自由主義全体主義」という形で表される。そして「資本主義→社会主義」という方向はマイナスからプラスへの方向とされ、「自由主義全体主義」という方向は、プラスからマイナスへの方向とみなされる(p231)

  資本主義社会 社会主義社会
上部構造 自由主義(+) 全体主義(-)
下部構造 資本主義(-) 社会主義(+)

観念的には(+)(-)が対角線的に結ばれる可能性も考えられ、例えばファシズムは資本主義と全体主義という(-)(-)の組み合わせの歴史的経験である(p232)
問題は自由主義社会主義との組み合わせである(+)(+)の形が実際の歴史的事実として実現する可能性があるかどうかということである(p232)
この対角線的組み合わせは、実は社会の大衆社会化によって、実現の可能性が生まれている(p233)


社会の発展方向として、社会体制の如何を問わず、大衆社会化が必至であり、その大衆社会化によって、資本主義と社会主義との差異は縮小し、自由主義社会主義とを結合したような方向が生まれてくるであろうということ、そしてそれを見越して、われわれの努力方向もその方向に設定されるべきである(p234)

書評

資本主義と大衆社会化の弊害を結びつけて語っていたこれまでの議論がマルクス主義からのものであることを踏まえ、その議論の偏向を批判している。
大衆社会化」が構造としてはそのまま「近代化」であることは、考えてみれば当たり前のようではあるが、はっきりと指摘しているのは本書が最初かもしれない。
著者は大衆社会化に対し、おおむね賛同の立場をとっている。

疑問点
  • 「松下理論では大衆が階級の特定状況として強引に包摂されるが、するとわざわざ大衆社会を取り出す必然性がなくなってしまう」のならば、松下が大衆社会論を持ち出したのは何故なのか?
  • 上の資本主義社会と社会主義社会の表だが、この把握の仕方は大雑把すぎるのでは?(確かに整理としてはわかりやすいが)