西部邁『大衆の病理―袋小路にたちすくむ戦後日本』・感想

すいません、途中で投げました(ボム)
うわあ、これも一応論文できるまでに読まなきゃダメなのかなあ?
勘弁して欲しい(笑)


読んだ部分だけを無理矢理まとめると


「快楽主義と平等主義の行き過ぎが産んだ『豊かな社会の病理』を表すためにいま再び大衆批判論が要求されているが、貴族主義的批判における『教養と財産をもたぬ社会階級としての大衆』も民主主義的批判における『操作される政治階級としての大衆』も現在の大衆像にそぐわないため有効な大衆批判を展開できない。
我々が展開すべきは精神主義からの大衆批判であり、そこで想定される大衆像とは『専門化した人々』である。
専門化の狭い穴に落ち込んだ自分自身を懐疑する心構え的なものが人々には必要なのである」


ギャー! まさかの精神論。意味ねぇっすからそれ!


「大衆化による文化の平板化」とかどう見てもご自身が否定されてる貴族主義的批判なんですが。てか貴族主義的・ブルジョワ主義的大衆批判の内容もわかってねぇように見えるお。


なんつーか大衆社会論(の変遷)の理解について雑すぎ。
大衆社会概念とか全然詰めないまま「ネガティヴな存在としての大衆」が基本路線になっちゃってる。
80年代も終わりに近づいてる時期に西部さんまだそんなこと言ってんのかよと言わざるをえなかった。あくまで途中までの感想だけど。
参考文献見たら日本の文献には自分の本しか無ぇでやんの。
おいおい。

追記

ウィキペディアで「西部邁」の項みたら
「あぁね……」
と思いました。

追加

(一応読んだので適当に抜粋要約)

 大量伝達(マスコミ)・大量消費が可能であるのは人々の欲望や行動が均質化され標準化されているからである。とくに近代社会は、市場制度と投票制度によって人々の欲望と行動を一様化し画一化してきた(p4)


 大衆化・大量化は、物質的快楽や社会的平等といったような単純な価値を過剰に追い求めた結果として達成される。
 ここ200年におよぶ大衆論を貫く不動の視点は、量的表現の優位の中に質的表現の劣位を見ようとすることである(p5)


 近年、大衆を特徴付ける一様化・画一化は薄らいだと言われるが、「一緒にいる多数の人間」(=大衆)、そして消費者としてのその欲求や選択が総体として正当化されていることは見逃せない。
 大衆を懐疑することから出発するものとしての大衆論が日本の言論に根付いたことは一度もない(pp8−9)


 日本における知識人の言論は、おおむね近代化を肯定してきた。近代化とは簡略化すれば産業化と民主化から成るものである。近代化を肯定するということは、快楽主義と平等主義に道を譲るということである。大衆論はこれら二種の近代的指向のイデオロギー化に対して懐疑する。
 近代化の過程に組み込まれてしまった類の知識を懐疑しなければ、知識人も凡庸と低俗を免れることができない(p9)


 ル・ボンの群集論に典型的にみられるように、負の社会階級としての大衆は組織されないままに放置され、非合理な衝動に身を委ねて、落ち着きなく不断に不動するものとみなされてきた。しかし近代社会は、ひとたびは伝統的な中間組織を壊滅させはしたが、新たに近代的な諸組織を次々とつくりだしてきた。つまり大衆に無政府的な性格があるとは必ずしも言えなくなってきている。かつての貴族たちが眼前にしたような野卑と混乱によって彩られる大衆社会と、現代の社会の姿は別のものである(pp14−15)


 フロムたちはいわば負の政治階級として大衆を定義し、政治的に操作されるものとしての大衆は民主主義を形骸化すると主張した。もし参加という言葉によって操作とは別のものを、つまり民主的な決定過程への能動的参画を表すとするなら、大衆が参加への意欲と行為を弱化させているせいで、民主主義が空洞化したというのである。
 しかしWW2後においては、この種の大衆批判も大幅に説得力を欠きつつある。何故なら、人々の参加は、さまざまな領域でますます強まる傾向にあるからである。「政治的に操作される階級」としての大衆という考え方は、もはや有効ではない(pp16−17)


 20世紀初頭から1920年代にかけて盛んに提起されたエリート論では、エリートがマスを支配・指導するという見方が打ち出され、WW2後の大衆社会論でもその見方が踏襲されてきた。しかし現代のエリートはマスと対比させられるべきものではなく、むしろマスの代表として位置づけられるべきものである。社会の様々な権力を大衆がすでに簒奪したということである(p20)


 多元的社会を大衆社会のひとつの形態、おそらく最も高度に発達した形態とみなすことができる。この場合の大衆性とは、伝統から遊離することに対し、全面的に積極的な価値を見出そうとする態度である。伝統の中には人間にとって無視できない諸々の矛盾・葛藤において、平衡を保ち総合していく知恵が秘められているが、これを探索することを軽視・無視するのが大衆人である(p33)


 大衆と対比さるべきは知識人、厳密に言えば伝統を大事にするものとしての庶民性に表現を与えるものとしての知識人であり、他方、伝統を軽んじるものとしての大衆性に表現を与えるのが専門人である。
 知識に対する懐疑をもたないのは専門人であって知識人ではない(p130)