各論者のまとめ

清水幾太郎

社会心理学』(岩波書店、1951年)


「大衆」
 分化、拡大、機械化という「近代的人間の本質ないし原理」の見地に立てば、本来的には個人から社会まで到るところに合理性が保証されるはずだが、実際には次の三つの側面を、社会のピラミッドの底辺あるいは外部の人々はもつことになる。
 第一の側面:人間は自己を諸集団に細分しているため、集団間の無政府状態は、直ちに人間そのものの分裂ないし無政府状態になり、同時に、エモーショナルな関係への飢餓あるいは孤独の感情を免れることができない。
 第二の側面:接触しうるほとんどすべてが誰かの手によるコピーであるために、人々は非合理的な普遍性へ導かれる。
 第三の側面:ビュロクラシーの外部にある人々にとって、人間の欲求・願望のための集団が逆に人間の上に超出する。
 これらの三つの非合理性の側面をもつ人々が大衆である。


→「共同体の崩壊」「マスメディアによる大衆操作」「官僚制による疎外」


大衆社会
 上記のような大衆が現れた社会?
 大衆社会において大衆がどのような位置を占めるのかがはっきりわからない。
 マスコミの発達によって操作されやすい存在として描かれていること、念頭に置かれているのがナチズムであることから、全体主義社会に転化しやすい社会として描かれている(多分)。

西村勝

大衆社会論』(誠信書房、1969年(新訂版。旧版1958年))


「大衆」
 次の①と②を含む。
 ①教育の普及と選挙権の拡大によって体制内に包摂された、それまで体制外的な存在であった人々。彼らは異なる諸地域から流入した互いに異質な人間である。
 ②ブルジョア公衆から没落して編入された中間層。


 一方では巨大技術の発達とそれに対応する人間の専門化、他方では第一次的集団に認められるような人格的絆を断たれることから、結果として人間の原子化と個性化が現れる。大衆社会の人間像を特徴づけるのはこの二つの性格である。
 産業化により第一次的絆が断ち切られたため、孤独・不安・無力という心理に衝き動かされる人間である。
 大衆はかつての公衆と異なって被支配層であり、種々の管理組織の中の歯車であり、管理の命令系統と規律に縛られた非合理的・部分的人間である。
 現代人の心理的性格としてはアパシーアノミーが挙げられる。
 大衆的人間を性格づける現象は、多かれ少なかれアノミー的面をもつ。


→「共同体の崩壊」「官僚制による疎外」


大衆社会
 現代は自由主義的民主主義およびそれを支えていた伝統的価値体系が解体して、新しい価値体系がつくられてゆく転換期にあり、大衆社会の問題は、このような新しい社会の生成に伴う危機現象である。大衆社会の矛盾の源流は、市民社会を特徴づけたいくつかの要素の中にある。
 大衆社会においては、合理性(官僚化、マスコミ)、自由化と民主化、都市化といった近代の諸原理の帰結が、合理性と非合理性のアンビバレントな状況を作り出している。
 一方では独占資本主義により、他方では社会主義への恐怖によるファシズム反動の可能性によって、その危機が倍加されている。
 独占資本主義社会では大衆社会の二重の疎外化の方向に拍車がかけられている。


 一方では大量の人間群がそのときどきの刺激や感情で行動するような情緒的大衆に地ならしされ、他方では技術が小数の人々に独占されるという分極化の傾向により、当然に権力の集中が現れる。
 官僚制とマスコミは少数者支配の技術である。それら大衆支配の技術は、直接的な物理的強制ではなく、管理組織や象徴などの間接的手段を利用することで支配の構図を巧妙に隠蔽している。


 個人の自由は、自主的な集団に再編成されることで保障される。大衆社会の矛盾を克服する場が自主的な集団である。

辻村明

大衆社会社会主義社会』(東京大学出版会、1967)


「大衆」
 社会の近代化はそのまま大衆社会の構造におきかえられるが、人間の近代化は大衆社会現象とは必ずしも対応しない。→つまり大衆とは近代化した社会において未だ近代化していない人々?


大衆社会
 資本主義社会にも社会主義社会にも、また自由主義社会にも全体主義社会にも、共通した社会状態の特徴というのは、結局「近代社会」あるいは「近代化」の進んだ社会の特徴ということになり、「大衆社会化」とは「(社会の)近代化」に他ならない。
 社会の近代化は政治・経済・社会・文化の四つの側面が更に細分化されるが、そこに見出される共通の原理とは「数量化」と「大量化」という二つの意味を含む「量化」である。
 「数量化」とは科学の大前提であり、そこからは「合理性」「計算可能性」(計画性、能率性、便宜性)といった属性が生まれてくる。
 「大量化」の側面は政治・経済・社会・文化のあらゆる面での大衆の登場を促し、「大衆参加」は大衆の意向を無視しえないという意味で「大衆の尊重」「人間の解放」をもたらし、あらゆる面での「民主化」をもたらす。


 社会体制の如何を問わず、大衆社会化は必至である。大衆社会化によって、資本主義と社会主義との差異は縮小し、自由主義社会主義とを結合したような方向が生まれてくるであろう。

後藤道夫

『収縮する日本型<大衆社会>─経済グローバリズムと国民の分裂』(旬報社、2001年)


「大衆」
 名望家(古典的西欧市民社会の「市民」含む)から貧しい労働者や商人、および地方の小農民などからなる。


大衆社会
 「大衆」が恒常的に表舞台にでた社会のこと。
 一部の名望家(古典的西欧市民社会の「市民」含む)だけでなく、貧しい労働者や商人、および地方の小農民などからなる「大衆」が、国民国家の公民としての資格を与えられてその社会の実質的な成員となり、社会全体の経済的・政治的・文化的状況も大衆の動向を媒介としてはじめて決まってくる、そうした社会。


 先進資本主義諸国の近代社会は、財産、教養、および政治的諸権利が名望家に集中している「名望家社会」から、大衆社会に移行したもの。
 西欧市民社会型の名望家社会からの大衆社会への移行は、旧来の自由主義から、「自由民主主義」への移行をともなった。自由民主主義は自由主義大衆社会的形態である。これに対し、非市民社会型の名望家社会からの移行は、開発独裁型政治体制から、直接に自由民主主義的政治体制への移行をもたらすことになる。この場合、大衆社会をつうじて市民社会的諸関係が形成され成熟することになる。自由主義を十全に経由しない大衆社会は、より画一的、同調主義的な体質を持ちやすく、全体主義的な体制を承認してしまう恐れもある。


 大衆社会への移行は社会過程・政治的過程への大衆の参加の拡大であり、その意味で社会の「民主化」である。そのとき、支配層にとって階級支配の中心的課題は、大衆に政治的・社会的・市民的諸権利を与えた上でその思想・要求・運動を彼らが妥協しうる範囲に抑え込むことであった。ここで秩序維持の方式は、大衆を「社会」の外部に排除しつつ法と暴力による支配というそれまでの方式から、大衆の「社会」参加を容認しつつ、同時に社会秩序と支配層の指導に対する大衆の「自発的同意」を調達するという方式に移行する。
 この、民主化を前提として、社会秩序への民衆の「同意」が広範に調達されている状態=支配層のヘゲモニーが安定している状態を大衆社会統合と呼ぶ。大衆社会化の課程は、民主化大衆社会統合との二重の過程である。




山田竜作



 





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