後藤道夫『収縮する日本型<大衆社会>』要約

 大衆社会
 「大衆」が恒常的に表舞台にでた社会のこと。
 一部の名望家(古典的西欧市民社会の「市民」含む)だけでなく、貧しい労働者や商人、および地方の小農民などからなる「大衆」が、国民国家の公民としての資格を与えられてその社会の実質的な成員となり、社会全体の経済的・政治的・文化的状況も大衆の動向を媒介としてはじめて決まってくる、そうした社会(p167)
 先進資本主義諸国の近代社会は、財産、教養、および政治的諸権利が名望家に集中している「名望家社会」から、大衆社会に移行したと考えることができる(p168)


 西欧型の市民社会自由主義的政治体制をとるのに対し、日本のような開発独裁型国家のもとでの名望家社会は自由主義的政治体制をとることができない。この違いは大衆社会への意向にあたっても、さまざまな差異を生み出す(p170)


 西欧市民社会型の名望家社会からの大衆社会への移行は、旧来の自由主義から、「自由民主主義」への移行をともなった。自由民主主義は自由主義大衆社会的形態である。
 これに対し、非市民社会型の名望家社会からの移行は、開発独裁型政治体制から、直接に自由民主主義的政治体制への移行をもたらすことになる。この場合、大衆社会をつうじて市民社会的諸関係が形成され成熟することになる。
 自由主義を十全に経由しない大衆社会は、より画一的、同調主義的な体質を持ちやすく、全体主義的な体制を承認してしまう恐れもある(p171)


 日本の大衆社会化は、WW1後から準備され、WW2後からはじまって1970年代に完成した(p171)


 イギリスを例に取れば、支配層が全体として大衆社会化の道を自覚的に受け容れはじめたのは19世紀終わりの頃からである。その歴史的背景は二つに整理できる。
 第一に、(特に不熟練・半熟練の)労働者が量的に増大し、労働者階級の政治的・社会的圧力が増大したことへの対処が迫られていた。
 第二に、イギリス単独覇権の自由貿易帝国主義から列強が相争う列強帝国主義への以降にともなって、戦争体制と帝国主義ナショナリズムに「国民」を総動員できる状況と体制を作ることが、各国支配層の死活問題となりはじめていた。つまり列強帝国主義はその本国の大衆社会化を要請した。
 まず、あまりにも過酷な労働条件と生活条件のため、それまでの労働者の多くは心身の能力の点で、軍隊の一員たることも危ぶまれる状況だった。
 さらに重要なのは、こうした過酷な労働条件と生活条件を背景として、彼らが「非愛国的」な存在だと思われていたこと。帝国主義戦争への総動員のために、労働者と農民に「国民」としての自覚とナショナリズムを喚起することが必要だった。
 国民としての処遇が国民の末端にまで届く国民国家は、帝国主義大衆社会化の産物である(pp171−173)


 大衆社会統合」
 民主化を前提として、社会秩序への民衆の「同意」が広範に調達されている状態=支配層のヘゲモニーが安定している状態。
 大衆社会への移行は社会過程・政治的過程への大衆の参加の拡大であり、その意味で社会の「民主化」である。そのとき、支配層にとって階級支配の中心的課題は、大衆に政治的・社会的・市民的諸権利を与えた上でその思想・要求・運動を彼らが妥協しうる範囲に抑え込むことであった。ここで秩序維持の方式は、大衆を「社会」の外部に排除しつつ法と暴力による支配というそれまでの方式から、大衆の「社会」参加を容認しつつ、同時に社会秩序と支配層の指導に対する大衆の「自発的同意」を調達するという方式に移行する。
 大衆社会化の課程は、民主化大衆社会統合との二重の過程である(pp174−175)


 大衆社会の諸段階
 大衆社会は大きく分けて三つの歴史段階に区分できる。第一段階、第二段階、収縮段階の三つである(p178)


 大衆社会の第一段階
 19世紀第4四半期から戦間期・WW2直後まで(西ヨーロッパ)。
 変化を促した二つの要因:増大した労働者階級の社会への組み込みと遅刻主義戦争への国民総動員の必要。
 日本のような開発独裁型国家によって上から資本主義化した社会では、これに加え、農村を工業化の下支えにするための絶えざる再編成の過程が大衆社会化を準備した。
 この段階では社会階級間の格差はまだ歴然としている(pp178−180)
 大衆社会統合は、労働貴族層の強い統合を基盤として労働者階級全体を体制内に馴化しようとするタイプ(p182)


 大衆社会の第二段階
 WW2の長期好景気の時期=「豊かな社会」の時期に形成。
 この時期の長期好景気は、耐久消費財の大量生産=大量消費サイクルが、先進国国内あるいは非グローバルな範囲で、安定的・上昇的に回転したことに支えられている。
 先進資本主義諸国では、このサイクルを安定的に回転させるためのケインズ主義的な財政政策・社会政策が高度に発展し、大衆社会統合は、この諸政策と一体になって進められるようになる。大衆は耐久消費財の消費主体という位置を獲得し、彼らの生活水準の向上はこのサイクルの順調な回転の不可欠な条件となった。
 社会保障の水準、および労使の妥協点が、「貧困線」ではなく社会的に「中位」の生活水準におかれるようになり、各社会グループ間の生活・文化の平準化が著しく進んだ。
 大衆社会統合は巨大製造業の半熟練労働者を中心に行われる.
 耐久消費財を中心として、消費欲求が大規模にかきたてられ、大衆消費社会型のライフスタイルと「大衆文化」が圧倒的な影響力をもつようになる(pp181−183)
 高度な大衆社会の実現は、資本主義近代の諸成果が大衆のものになると同時に、「近代」の限界と矛盾が、彼らにも一切の幻想を許さないかたちで現れる歴史的条件の出現であった。先進資本主義諸国で1960年代から発生した「近代」批判は、大衆社会化による「近代」の普遍化が生み出したものであり、この時代の近代批判=大衆社会批判は、旧名望家社会の立場からの「貴族主義」的批判とは異なり、高度化した大衆社会に内在的な批判であった。(p186)


 日本型大衆社会と高度福祉国家
 第二段階の大衆社会には少なくとも二つの類型がある。西欧の福祉国家大衆社会と、企業主義統合を中心とした日本型大衆社会である。(p186)


 以上、大衆社会の類型論と福祉国家の段階論を関連させて述べてきたが、こうした議論は、まず第一に、日本型大衆社会の特殊性と普遍性をともに把握する上で必要である。日本は福祉国家であるのか否かという問題も、この枠組みでとらえれば、第一段階福祉国家社会保障水準はクリヤーしているが、第二段階福祉国家の諸条件をそなえていない、発達した大衆社会の独自の類型という答になる。日本の社会保障の水準や構造を、福祉国家の段階論抜き、あるいは大衆社会の類型論抜きに、いきなり他の福祉国家諸国の諸類型を分ける諸指標に照らして分析しても、全体像はみえにくい。(p190)


 これまでの「大衆社会論」の関心枠組み
 それまでの名望家社会は、紛争処理のルールや政治的合意の形成などをごく狭い社交サークルの範囲内の問題として処理してきたが、大衆社会の成立はそれまでの規範、常識、ルールを役立たずにする。
 思想の問題としてみても、「大衆的人間像」が知識人たちを悩ますようになる。
 大衆社会化による社会の内面的な諸変動をどのように理解し、了解するのかという課題意識は、19世紀半ば以降、専心資本主義地域での社会科学的・思想的な鋭意の中心軸の一つであった。WW2後に日本に紹介されたさまざまな「大衆社会論」も、こうした理解・了解作業の一部とみなしてよい。
 多くの大衆社会論の問題関心の中心は、さまざまな社会領域への大衆の参入による「市民社会」の堕落と病理現象の解明というものであった(p200−202)


 戦後日本に影響を与えた「大衆社会論」の一方の源は、ナチの分析、あるいは全体主義分析であった(マンハイムアーレント、フロム、レーデラーなど)。
 彼らの議論はブルジョア革命期からはじまった、大衆の進出そのものに拒否感を示す「貴族主義的」大衆社会批判とは異なり、民主化の過程、民主主義の価値そのものは承認する。全体主義に対する彼らの民主主義的批判を「大衆社会論」と特徴付けることが可能なのは、「非エリートの隔離の喪失および民衆を全体的に動員しようとするエリートの登場」という理解の仕方である。彼らの大衆社会理解の要点は、「大衆社会は民衆がエリートによる動員にいとも簡単に服するようにできている仕組み」だというとらえ方にある。
 貴族主義的批判が、大衆社会は愚昧な大衆による小数のエリートの抑圧・支配とみなされ、民主主義が過剰な状態と理解されるのに対し、民主主義的批判では、全体主義的エリートという少数者による多数者支配が大衆社会の病理の基礎だ、という理解である。彼らの場合、民衆がエリートに操作されやすい「大衆」という形で現れる、その社会的条件と「集団」のありようが問題となる(p203)

(途中)