「戦後日本の社会状況 ――日本型「大衆社会」の安定装置――」『講座 今日の日本資本主義 第四巻 日本資本主義の支配構造』(大月書店、1982年)

 国家、私企業、組合など社会生活の全般にわたる官僚制化の進行という認識を機軸に、大衆民主主義の進展とそこにみられる特有の社会心理的諸現象、とくにその病理的徴候の認識をくみあわせて成立したのが、その後における大衆社会論だといってよい(p308)


 大衆社会論には、マンハイムに代表されるような「絶望的な非合理的劇場の噴出」を警告したタイプのほかに、むしろ「快適な平穏と消費の気分の支配」を指摘したタイプがあった。その代表例としては、C・W・ミルズの『ホワイト・カラー』をあげることができる。
 彼は大衆社会の特徴を次のように描き出す。すなわち大企業と政府の強大な官僚制機構の発展によって、ホワイト・カラー層が増大、彼らはそのなかで「陽気なロボット」として操られつつ、ただ余暇にのみ生きがいを見出し、政治的にはマスメディアの操作の受動的対象として主体性のない「後衛」として終始する、という。
 マンハイム大衆社会論が国家独占資本主義のナチズム型の類型を表していたとすれば、ミルズのそれは、ニュー・ディール意向のアメリカ型の国家独占資本主義を表現している。
 以上のような大衆社会論が日本においてさかんに論議されたのは、WW2後、とくに1956年から1957年にかけてであった。しかし、高度成長の開始期にあって、新しい社会状況は都市の「新中間層」を中心に端緒的にみられたにすぎず、当然それを念頭においていたにせよ、諸外国の文献の紹介、整理、そのことによる問題提起といった性格を抜け出ることはできなかった。現実よりも理論が先行した早世的大衆社会論とでもいうことができよう。
 しかしそれでも、日本の思想的風土のなかで、独自の大衆社会論が生み出された。マルクス社会理論との交錯がそれであり、松下圭一氏の理論がその代表例である(p309)


 たしかに松下氏の大衆社会論は、独占資本主義という段階規定から一挙に大衆社会状況をみちびいており、そのこともあって独占資本主義一般の支配、そのトータルな浸透のようになってしまって、「支配様式の変化、したがって反体制運動の条件の変化」という氏自身の課題にも、具体的にこたえうるものにはなっていなかった。
 しかし60年以降、「大衆化状況を基盤として労働者階級を『馴化』する支配形態」は、たんなる「補完政策」とはいえないかたちで本格的に登場し、それがさらに重みを増しつつある現時点では、ただ「帝国主義にかんする理論」というだけでなく、日本国家独占資本主義の新たな支配形態として、よりいっそう具体的な次元で、大衆社会の問題をとらえなおす必要がある。
 それともう一点、市民社会から大衆社会へという図式の問題がある。日本において資本主義は急速に発展していくが、市民社会としての成熟はみられなかった。そしてはやくも1920年代には、いわば「前期的大衆社会状況」が現出されていく。しかしこの段階での大衆社会状況は、「『イエ』から抽象された『街頭』的状況として出現していた」のであり、日本社会を奥底からとらえたものではなかった。そのかぎり、その後に成立する日本軍国主義も、ナチズムの場合のように大衆社会状況を利用した「運動」としてではなく、むしろそれを圧伏するかたちで形成されていく。それは家と村を解体するのではなく、その一定の変容はみられたにせよ、むしろそれらを基本的な枠組みとしてくみこむかたちで展開されたのである(pp310−311)


 
(途中)