松下圭一『現代政治の条件』(中央公論社、1959年)

 20世紀における欧米資本主義の独占段階への移行は、「経済」における資本構成上の高度化のみならず、この高度化の前提をなす生産の社会化を基礎として、「社会」の形態変化をもたらした(p10)


 生産の社会化を基礎とする資本主義の産業資本段階より独占資本段階への移行は、資本と労働の基本的矛盾を止揚することなく、石炭にたいする石油・電気のあたらしいエネルギー源の開発とあいまって、大量生産mass productionならびに大量伝達mass communicationをうみだし、これまでおもに直接的な生産過程の内部において発達をみていたテクノロジーを社会過程の内部にまで進出せしめ、社会の組織技術に革命的変革をもたらした(p10)


 このような独占段階における生産の上昇にともなう生産の社会化は、同時に労働の社会化をももたらしており、人口量の圧倒的なプロレタリア化――伝統的な生産手段からの乖離と労働力の商品化――を必然化した。すなわち労働者階級の量的増大と、独占段階の人口構成のすぐれた特徴をなす新中間階級の新登場がこれである。このような労働者階級の量的蓄積ならびに新中産階級の新登場として遂行された人口量のプロレタリア化は、また、一方においては厖大な人口量を伝統的生活半径から離脱せしめることによって流動化するとともに、他方においては旧来の社会層別の再編成を強行していくことになった(pp10−11)


 かくして、独占資本段階への移行という形態において貫徹された生産の社会化は、労働・テクノロジーの社会化を媒介としつつ、社会関係の高度の機械化・流動化、さらに日常生活における時間と空間のカテゴリーの変化をもたらしたが、しかもそこに社会の深部から厖大な人口量を社会・政治過程に抽出することによって、この人口量を「体制」の論理内部においては<大衆>として定着せしめていった。
 換言すれば、資本制内部における生産の社会化を起動因として、Ⅰ.労働者階級を中核とする人口量のプロレタリア化、Ⅱ.テクノロジーの社会化にともなう大量生産・大量伝達の飛躍的な発達、ついで、Ⅲ.これらⅠ・Ⅱを基礎とした伝統的社会層別の平準化による政治的平等化を前提として、社会形態の変化が必然化され、ここに「社会」は機械化された大衆社会として位置づけられてきたのである(p11)


 従来、資本主義の論理的前提でありながらも、「市民社会」にとって非存在であった労働者階級は、社会内部の存在になることによって、<大衆>として定位されるにいたった。これまで体制外在的な労働者階級は、あらたに蓄積された新中間階級とともに、体制内在的な<大衆>へと転化する(p11)


 独占段階における大衆社会の形成の基本条件は「生産」の社会化による労働の社会化にともなうプロレタリア化の進行である。しかしながら、労働者階級を中核とし、新中間階級を含む人口量の圧倒的多数のプロレタリア化は、<大衆>の形成の「社会」的前提ではあるが、プロレタリア化自体はけっして特殊欧米的問題状況としての<大衆>の完成を意味しない。プロレタリア化は社会の産業化ないし生産の社会化の論理的帰結ではある。しかしこのプロレタリア化自体はいまだ<大衆>として形象化されることはない。プロレタリア化し原子化した人口量の<大衆>化は、むしろ「政治」的連関の内部において位置づけられなければならない。プロレタリア化は<大衆>の「社会」的前提ではあるが、<大衆>はさらに「政治」の論理の帰結としてとらえられなければならない。
 <大衆>の完成は、資本主義社会における基本的階級としての労働者階級の政治的主体化を動因として、体制によって強行される労働者階級の体制内部への受動化による体制への編成化の亢進によって、政治的に実現される(p20)


 大衆国家は、独占段階における社会形態の変化を条件として、体制による<階級>の<大衆>化として成立する。したがって、この段階におけるデモクラシーは(……)社会形態の平準化によって必然化される名望家層の崩壊という問題連関において、まず、把握されなければならない(p26)


 <大衆>はデモクラシーにおける矛盾である。<大衆>はデモクラシーの主体(普通平等選挙権)でありつつも、むしろ操作対象として客体化され、体制と大衆は悪循環をくりかえしている。体制の論理によって創出された<大衆>は、体制の主体として定位されつつ、政治的自由は大衆操作によって内面から空洞化される危険性をはらんでくる。<大衆>の支配としての大衆デモクラシーは、体制と大衆との悪循環によって、支配層と被支配層の一致として空転し、もっとも先鋭な場合には疑似デモクラシーとしてのツェザリスムス(大衆委任的独裁)へと堕落するであろう(p28)


 以上にみたように、社会形態の変化をもたらした独占段階の政治研究においては、階級関係の分析のみではいまだ充分なる分析をなすことはできない。むしろ政治機構、政治指導、政治心理などの政治過程の次元における分析が、階級構造の分析と内在的に結合されなければならない(p29)


 かくして、<大衆>の問題は、「社会」の形態変化を背景とする体制の論理の貫徹という特殊20世紀的「政治」状況に設定されるべきである。すなわち独占資本「経済」段階における労働者階級は、「社会」形態の変化を媒介として、体制の論理に「政治」的に適合した場合、<大衆>という行動様式ないし意識形態をもってくるという連関である。「社会」の形態変化を条件として、「政治」の論理の内部において、「経済」における<階級>の存在形態が、産業資本段階から独占資本段階への移行において、変化したのである。独占段階の体制の論理の内部においては<階級>は<大衆>的行動様式ないし意識形態をもつものとして現実なのである。
 それゆえまた、<大衆>の分析は「機構化」「集団化」「技術化」「情緒化」の形態学的徴表を中心とする大衆過程の分析のみによっては完成しない。このような分析の前提としての<大衆>の実体化、それにともなう無定形性、匿名性、受動性、非合理性などの属性の固定化は拒否すべきである。むしろ階級構造を基礎とする体制の論理の分析を前提としてはじめて<大衆>の問題性は把握できるのである。それゆえ、<大衆>の政治的無関心あるいは政治的熱狂への批判も、体制の論理への批判と結合されなければならない。
 いわば<大衆>状況が、体制による<階級>の操作ないし馴化によってもたらされるかぎりにおいて、体制による<階級>の<大衆>化は、またつねに未完の運動にすぎない。<大衆>化は<階級>の特定状況であって、けっして<階級>を止揚しえない(p29)


 <大衆>状況の克服はまさに<大衆>状況をもたらした社会形態の変化自体によって条件づけられており、そしてむしろ、これは積極的条件として機能しうるのである。かくして日常的には、まず第一に、大衆的に保持されている市民的自由の実質的確保をあげなければならない。(……)市民的自由は、形式的自由として排斥されることなくむしろ変革という階級の論理の内部に結合しさらに再構成されなければならない。ついで第二に、この市民的自由のコロラリーとして、市民的自由の初等学校としての自主的集団の形成である(p34)


 ついで、日本においても、その特殊性をもちながらも、独占段階における社会形態の変化という一般的状況が進行しているのであり、「封建」対「近代」のみならず、さらにするどく「近代」自体の問題が提起されなければならない(p34)


 もし、産業資本主義段階のベンサム夜警国家あるいはフンボルト的教育国家に対応する社会形態として市民社会を設定するならば、独占資本段階におけるケインズ福祉国家、あるいはヒトラー的全体国家に対応する社会形態として、大衆社会を提起することはゆるされてよいであろう(p35)


 たしかに「大衆社会」の観念はマルクス主義者が提起したものではない。