アウトラインのために(随時更新)。

(1)問題意識・論文の目的
日本の政治学社会学における大衆社会論において、「大衆」概念がこれまでどのように措定されてきたのか、そして時代を経るにつれ如何に変容したのか? また何が変容していないのか?
日本の主要な文献を考察することでその研究史とする。


(2)論文の展開
年代別に上記変容をざっくりとまとめる。


50年代

  1. (理論)
  2. (歴史)


60年代

  1. (理論)
    • 大衆社会化」=「社会の近代化」(大量化と数量化)*3
  2. (歴史)
    • 「1960年代に形成された日本の大衆社会は、西欧の福祉国家型の大衆社会……とは別の独自の類型であった」*4
    • 「当時の近代主義者の「市民」概念が、前近代的要素と大衆社会による国民の政治的受動化との双方を同時に批判する、二重の批判機能をもっていた」*5
    • 1960年、日米安保条約改定闘争(これを通じて日本の支配層の主流が日本国憲法に基づいた自由民主型の政治体制を本格的に受容*6
    • 1960年代半ば以降、支配層が、自由民主義体制の下で都市労働者が多数派となっても、なお資本主義秩序を維持できる、という自信を持ちはじめる(高度経済成長の持続と「企業主義統合」の成立、「開発主義国家体制」の支配ネットワークの成立)*7
    • 戦後思想の分岐(日本型大衆社会になお「近代の不足」を見続ける/「近代の実現」を見出して満足する/民衆の生活上・政治上の受動性の拡大を感じ取り、これと戦えないと感じられる戦後思想全体に懐疑的となる)*8
    • 高度成長そのものに対する拒否感を抱く「市民的ラディカル」派の形成(日高六郎小田実など)*9


70年代

  1. (理論)
  2. (歴史)
    • 日本型大衆社会の定着*10
    • 「開発主義国家体制」(=日本型大衆社会)の確立(また戦後民主主義派は全体としてこれに「無反応」あるいは無自覚)*11
    • 新自由主義が影響力を強め始める*12
    • 73年の石油危機により、50年代後半からの高度経済成長が終了
    • 75年以降、労働争議の数・参加労働者数がともに急減、ほとんど無視できる程度の水準に*13


80年代

  1. (理論)
    • 新中間大衆
    • 大衆消費社会(多元社会と画一化社会)*14
  2. (歴史)
    • 新中間大衆


90年代

  1. (理論)
  2. (歴史)

00年代

  1. (理論のみ)


(3)暫定的な仮説
 日本では、戦後の民主化と産業構造の変化により、それまで「背景」に退いていた大多数の人々が「国民」として政治・社会・経済の各面で前面に進出した。
 大衆社会論は、大衆が前面に進出した社会を近代社会の後に来たる「現代社会」と捉え、それが孕む問題について警鐘を発することをその出発点とした。


 大衆社会論における現代社会=大衆社会の共通な理解はおおむね次のようにまとめられる。

  1. 大衆社会を成立させる大前提は社会の民主化と工業化である
  2. さまざまな階層・階級の人々の集合である大衆が社会のありようを左右する
  3. 科学技術、特にマスメディアが大きな影響力を持ち、社会の民主化にも関わらず少数者への権力集中が見られる
  4. 各領域での官僚制が社会に広く見られる
  5. 消費における流行などの大衆社会現象が現れる

 さらにここから、大衆社会論は「大衆」に重点を置くものと、「社会」に重点を置くものの二つに大きく分けられる。
 前者は「大衆的性向をもつ「大衆」の実在」を認め、近代化によって形成された「大衆」の(低位とされる)存在様式そのものから社会のありようを分析・推定していく。これはナチスドイツを大衆社会の典型とみる欧米の大衆社会論の影響を大きく受けたものであり、1950〜60年代頃の日本における初期の大衆社会論に多く見られる。議論の中心となるのは大衆‐エリート(または多数者‐少数者)という二項図式のもとでの、エリートによる大衆支配、または「多数者の専制」という問題意識である。これらの問題意識は大衆を受動的・情緒的・愚劣とみることがその基底としてあるが、印象主義的で根拠に乏しいことから「大衆蔑視論」であり「貴族主義的」であると批判される。


 もうひとつは、「大衆」に固有の性向を認めるのではなく、社会において人々がどのように「大衆」化されるのか、また大衆社会現象の起こる社会的条件とはいかなるものか、という点に着目する。
 このタイプの大衆社会論を展開する代表的な論者には、松下圭一、後藤道夫などが挙げられる。


 松下は当初からの日本大衆社会論の代表的論者であり、1957年の大衆社会論争の中心人物でもあった(ただし当時展開された「マルクス主義大衆社会論」という構図は松下によれば「誤読」に基づく不毛なものであり、松下の意図するところではなかった)。
 松下によれば、大衆社会は19世紀的産業資本主義が20世紀的独占資本主義に変化したことに伴い、市民社会から変化した社会形態である。独占資本が国内での政治的ヘゲモニーを握ることによって、新中間層から労働者階級までの人々は「体制の論理」が貫徹された体制内存在=<大衆>とされる。重要なのは、このような民衆馴化を可能とする大衆社会状況そのものが、一方では安保闘争のような大規模な運動を可能にしたということである。松下は、社会形態の大衆社会化を、真の民主主義にとって不可欠な基礎条件として捉えていたといえる。


 後藤も「大衆」を支配層の論理に懐柔された労働者階級として、松下と同様に捉えている。
 大衆社会状況の中で民主化と工業化が進むと、量的に増大した労働者階級からの圧力が増し、体制側による大衆への露骨な支配・抑圧は難しくなる。大衆社会状況における支配層の権力維持の道筋を、後藤道夫は次のように描く。
「そのとき、支配層にとって階級支配の中心的課題は、大衆に政治的・社会的・市民的諸権利を与えた上でその思想・要求・運動を彼らが妥協しうる範囲に抑え込むことであった。ここで秩序維持の方式は、大衆を「社会」の外部に排除しつつ法と暴力による支配というそれまでの方式から、大衆の「社会」参加を容認しつつ、同時に社会秩序と支配層の指導に対する大衆の「自発的同意」を調達するという方式に移行する」。
 大衆の「自発的同意」を得ることで支配層のヘゲモニーが安定した状態を後藤は「大衆社会統合」と呼び、大衆社会化は民主化大衆社会統合の二重の過程として描かれる。








社会の前面に進出した「大衆」と「体制側」(旧支配層/エリート/資本層)のせめぎ合い・関係性を予見するものであり、またその歴史を考察するものとして展開されていった。


歴史的には、後藤の言葉を使うなら「大衆社会統合」*19により、日本において「大衆」は主に企業を中心として体制に内化されていった。


初期大衆社会論は、輸入学問的な色合いが強かったこと、そこにおいて近代西欧社会と当時の日本の状況の違いに無頓着であったことで、論者たちの意図からずれ、いわば政治・社会における民主化、官僚化、産業化等の各種条件を要素とした「未来予想図」的なものとなってしまった。

日本で大衆社会状況が実現したのは1960年代であり、これは初期大衆社会論の隆盛の終焉と軌を一にする。
初期大衆社会論は日本においては早すぎた議論であると同時に、日本では「近代市民社会の成立」を飛び越す形で大衆社会が成立したために、西欧の福祉国家型と異なる独特の「日本型大衆社会」が成立することを予見できなかった。
初期大衆社会論はその理論的な「勇み足」のために、現実との乖離によってその説得力を失ったのだった。

*1:後藤道夫『戦後思想ヘゲモニーの終焉と新福祉国家構想』p10

*2:後藤道夫『戦後思想ヘゲモニーの終焉と新福祉国家構想』p44

*3:辻村明『大衆社会社会主義社会』p49

*4:後藤道夫『戦後思想ヘゲモニーの終焉と新福祉国家構想』p23

*5:後藤道夫『戦後思想ヘゲモニーの終焉と新福祉国家構想』p23

*6:後藤道夫『戦後思想ヘゲモニーの終焉と新福祉国家構想』p30

*7:後藤道夫『戦後思想ヘゲモニーの終焉と新福祉国家構想』p31

*8:後藤道夫『戦後思想ヘゲモニーの終焉と新福祉国家構想』p42

*9:後藤道夫『戦後思想ヘゲモニーの終焉と新福祉国家構想』p70

*10:「マイホーム主義」、「生活保守主義」等(山田竜作『大衆社会とデモクラシー』p230)

*11:後藤道夫「開発主義国家体制」『ポリティーク』第五号

*12:後藤道夫『戦後思想ヘゲモニーの終焉と新福祉国家構想』p42

*13:後藤道夫『戦後思想ヘゲモニーの終焉と新福祉国家構想』p79

*14:山田竜作『大衆社会とデモクラシー』p234

*15:後藤道夫『戦後思想ヘゲモニーの終焉と新福祉国家構想』p26

*16:後藤道夫『戦後思想ヘゲモニーの終焉と新福祉国家構想』pp42−43

*17:山田竜作『大衆社会とデモクラシー』

*18:後藤道夫

*19:「国民の大衆社会統合は、要求実現の政治的・社会的回路、福祉供与のシステム、働き方のルール、文化能力の獲得とアイデンティティのありよう、などの諸領域を通じて、資本守秘体制と支配層のヘゲモニーにたいする国民の「同意」をとりつけるシステムであり、階級支配を、国民としての同一性と「合意」を媒介として納得させる支配様式であった」(後藤道夫『戦後思想ヘゲモニーの終焉と新福祉国家構想』p342)