村上泰亮『新中間大衆の時代』・書評
(関連ありげな部分を飛び飛びに読んだだけなのでアレですが)
要約
戦後経済同様、戦後の日本政治も他の先進産業諸国に見られない独特の軌跡を示してきた。その最大の特徴は他に例のない保守政党の全期間に及ぶ優位である(p159)
高度大衆消費社会は、階層構造の変化を生み出しながら政治勢力のバランスを変えていくだろう。そして、人々の価値観までもが緩やかに変化しようとしている。
このような「新しい大衆社会」の力が政治システムをどのように変えていくのか。その問いは、二大政党制という古典的理念との葛藤のうちに答えられる以外にない(p166)
毎年の総理府国民生活調査*1の結果から「一億総中流化」「階級のない社会」などの議論が起こったが、世論調査結果、それもただ一つの質問の回答に依存して「総中流化」といったような結論を出すことには、大きな無理がある。
「中流」という概念をまず十分に検討する必要があり、さらにさまざまの調査結果を組み合わせて結論を導く必要がある(p167−168)
この種の分析を試みるにあたって、その出発点となるべき最も一般的な概念は「階層化」である。階層化とは、個々の人間ないし個々の集団が何らかの上下関係によって序列化され、その序列を社会が何らかの意味をもつものとして認めていることを指している(p168)
以下の議論では、「階層構造化」に中心的な分析概念の役割を演じさせながら、現在の日本社会では「非構造化」が進行してきたことを示してみたい。さらにいえば、現在の先進産業社会では、概して構造化のメカニズムが崩れつつあるように思われる。
そこでは、「中流階級」が崩壊し、「新中間層」の輪郭が溶解し、そして「新中間大衆」が登場する(p172)
マルクス主義は、資本主義型の産業社会が資本家階級と労働者階級との二つから成る階級社会であることを久しく主張してきた。
マルクスは地主や伝統的な商工業者が中流階級として存在していることは認めたものの、それはやがて二大階級対立の中に解消されるべき過渡的な存在と考えたようである。
しかしそのような予想に反して、20世紀に入っても中間的階層は着実に増加していった。確かに地主や伝統的商工業者からなる「旧中流階級」は没落しつつあったが、管理職・専門職を含むホワイトカラーのサラリーマンがそれを埋めて余りある速度で増大しつつあった。エミール・レーデラーは1912年の論文で、この新しい中間的階層を「新中流階級」と呼んだ。戦後日本社会の動向は、新中流階級の持続的拡大を示唆する事例だと考える人も少なくない。
しかし、事態は新中流階級という分析概念を超えて展開している。総理府調査にみられるような質問に答えて自らを「中」と位置づけるような厖大で多様な人々を、資本家と労働者とを媒介する一つの「階級」という枠にはめこんでしまうことは無理である(p172−173)
WW2を経過し、さらに戦後の「大繁栄期」を通じて、「行政化・平等化・反ブルジョア化」の三つの傾向はいよいよ明瞭となっている。これらの傾向の働きによって、階級構造に何らかの重大な変化が生じつつあることは否定の余地がない(p181)
「20世紀システム」の成熟段階は、平等化の要求、行政化の趨勢が手をとりあう形で推進され、行動名大衆消費が社会の全般を蔽う新たな生活様式を作り出した。
- 経済的次元
- 所得の平等化
- 福祉政策によって生み出された実質的な財産再分配効果(人口の大部分の「亜有産者化」)
- 企業の支配的次元における所有と経営の分離
- 政治的次元
- 議会制度における平等化
- 行政への負担増大による行政内部の階層化強化、それによる「行政エリート」の出現
- 雇用関係の長期的性格による企業組織の共同体化、それによる企業の頂点での「準行政エリート」の出現
- 文化的次元
(p182−186)
このような事態を、階層化が一律に弱まったと要約するのは軽率である。戦後の先進産業社会に生じつつあるのは、各次元での階層化の非斉合化、非構造化である。より具体的に言えば、かつて全次元にわたって下流と明確に区別されていた「中流階級」が輪郭を失っている。
このような状態では、大半の人々がもはや自らを下層とは意識しえない。この意識は一元的な階層尺度が溶解した結果として生じた消極的な自己規定であって、従来の中流意識が一元的尺度の上で自らを中流と位置づけた積極的なものであったのとは異質である。
今後の主役を務めるのは、この階層的に構造化されない厖大な大衆である(p188)
書評
日本における「大衆化」がどのような社会的変動を招いたか、がここで示されている。
初期の大衆社会論で示されたような、官僚化・技術化によるエリートへの権力の集中*4が起こる一方、そこにいる「新中間大衆」は「エリートに操作される下層大衆」という戯画からはズレたものである。
「保身性」と「批判性」という二つの性質を併せ持つ「新中間大衆」には、平等化や社会保障への要求を自ら実現してきた面もあり、また同時に、後藤道夫のように行政側からこれを見れば、産業化の担い手として力を身につけてきた大衆を政治的に統合する過程であったとも言えるだろう。
また、「資本家階級そのものは、政治的も文化的にも無能力な存在である」(p178)という指摘は、大衆社会論の、特に貴族主義的大衆批判への明確な反論である。