山田竜作『大衆社会とデモクラシー』(風行社、2004年)・要約的抜粋

要約

「デモクラシーの時代」とされる「現代」とは何か、という問いに答えようとする際の出発点・立脚点が問い直されなければならない(p8)
大衆社会ということで過去に何が議論されてきたのか(p12)


松下圭一の政治理論、50年代の「市民政治理論」研究、大衆社会論、60年代の分権論・都市論・市民論、70年代のシビル・ミニマム論はほとんど相互に関連付けては理解されなかったが、むしろそこにはかなり一貫した論理がある(p13)
シビル・ミニマムに至る彼の理論的パラダイムを定礎したのは大衆社会論だった(p14)


マルクス的階級理論を大衆社会理論の中に組み込もうとした松下の議論は、欧米の大衆社会論の多くが大衆社会を無定形な「無階級社会」と捉えるのに対し、世界的にもユニークである(p15)
彼にとって現代社会は、二重の疎外=「資本主義的疎外」と「大衆社会的疎外」に直面している(p15)


松下は近代の政治理論を「市民政治理論」と呼んだ。彼は「市民政治理論」を、ロックによって確立され、「市民社会」の観念を伴って、19世紀末から20世紀初頭において支配的だった理論と理解した。
松下はその上で、19世紀末から20世紀初頭にかけて、「大衆社会」と呼ばれる社会の出現した時代に、欧米の政治理論が近代の「市民政治理論」とは異なる理論構造をもつようになったと考え、その理論的変容の追究を試みた(p101)
同時に彼は当時のスターリン主義マルクス主義教条主義的な経済決定論であり、政治・社会の実際のダイナミズムを理論化するために、「上部構造」=政治が、「下部構造」=経済とはある程度区別される領域としてそれ自体が理論化されなければならないと考えた(pp101−102)
→「市民政治理論」の20世紀的な変容とマルクス主義の転換という二つの関心


松下は、なぜ大衆社会が形成されたのか、またその時になぜマルクス主義も発展したのか、という理論の変化の歴史的基礎を問うことが問題なのだという(p105)


松下の理論の骨格

  • 大衆社会状況をもたらしたとされる独占資本段階の特徴の説明
  • その把握のための分析枠組み


後者の分析枠組みについて松下は「経済構造=社会形態=政治体制」という三重構造の分析を提唱した。この枠組みから

  経済構造 社会形態 政治体制
近代(19世紀) 産業資本主義 市民社会 市民国家
現代(20使役) 独占資本主義 大衆社会 大衆国家

という松下の理論を貫く一つの歴史観が導き出される(p106)


松下は、一方で経済決定論的なマルクス主義に対して「社会形態」「政治体制」の自律的な理論化を志向すると同時に、もう一方ではマルクス的な階級社会論を自身の大衆社会論に「経済構造」という形でビルトインし、無階級社会論的な欧米の大衆社会論と一線を画したのだった(p109)


社会形態の変容――市民社会から大衆社会
生産力の上昇にともなう生産の社会化は、労働者階級の量的増大と新中間階級の登場をもたらした。かつて産業資本主義段階において自由な<市民>階級に対立し、政治的には「無」であった労働者階級が、社会過程の前面に進出するとともに、新中間階級とともに体制内在化する。その場合、圧倒的な人口量は<大衆>という存在形態を付与される(松下「大衆国家の成立とその問題性」)(p109)


彼自身の考える<大衆>は、20世紀的な独占段階において体制内在化した労働者階級の社会形態を意味する(論争的概念である大衆=people/multitude/crowd/mobとは異なる)(p110)


労働者階級はいかなるプロセスを経て体制に内在化させられるのか?
→「大衆デモクラシー」と「大衆ナショナリズム


「大衆デモクラシー」
独占段階における政治的平等化(選挙権拡大や労働運動)によって労働者階級が主体的に進出すると同時に、新しく変化した社会の諸条件(特にテクノロジーの発達)のもとで受動化してしまう。
テクノロジーの発達(「第二次産業革命」)は一方で労働者階級を経済的・精神的貧困から救済するように見えるが、他方では官僚統制と大衆操作をも可能にする。
政治的主体となったはずの労働者階級が同時に政治的客体にされてしまう状況=「大衆社会的疎外」
また松下は政治的無関心や非合理性といった問題を<大衆>に固有の属性として実体化することを拒否し、<大衆>の問題性把握は、大衆に対してではなく体制の論理に対する批判へと結びつかなければならないとする(p116)


「大衆ナショナリズム
祖国をもった「国民」としての労働者階級の形態変化。
<大衆>には大衆文化の成立により「国民意識」が培養される。また義務教育や国旗・国家などの国民的シンボルにより、国民意識は労働者階級に深化・拡大されていく。
「大衆デモクラシー」は労働者の主体化の条件としてより、むしろ受動化の条件として作用し、その意味では普通選挙権は労働者階級の「下からの自己訓化」となり、同時に福祉国家化の進展によって、国家に対立していた社会主義は国家によって実現されうる社会主義に転化する(p116−117)
福祉国家社会民主主義の背後には独占資本が君臨しており、労働者階級は<大衆>的な擬似自発性とは裏腹に、政治的支配を勝ち取っていない(p117)



「近代」と「現代」を区別する松下は、彼のいう「市民政治理論」をどのように理解したのか? そしてその理論が20世紀に以下に変容したと考えたのか?
二つのポイント

  • 松下はマルクスの理論や社会主義思想を、市民政治理論の後継者とみなしていた(社会主義思想は「革命的市民政治理論の問題性たる《国家》対《個人》という対立――範疇機構時代を継承している」、と松下はいう(p127))
  • 20世紀初頭には(マルクスを含む)近代政治理論が「生産の社会化」の進展によって変容せざるを得ず、「個人」ではなく「集団」を理論化する必要性に迫られた、と松下は考えた(p120)


彼が「近代」「現代」という二段階を設定して、近代という時代を文節化するのは、講座派マルクス主義や「近代主義」などに見られる封建対近代という「近代一段階論」を批判するためであった。
大衆社会という趨勢が工業社会に普遍的に見られるものである以上、戦後日本の社会科学は、「封建から近代へ」という単純な一段階論ではなく、さらに「市民社会から大衆社会へ」という近代・現代二段階論へと発展しなければならない、というのが松下の主張であった(p145−146)


人々が<大衆>にされるのは、国家権力の側から「体制の論理」が上から貫徹されるからであり、一方で大衆社会状況は人々の運動を可能にしたものでもあった(p147−149)


松下は日本の大衆社会における革新勢力の闘争として、「国民統一戦線型人民デモクラシー」を提起した。ここで彼はマルクス主義的な「階級」アイデンティティよりも上位に、「国民」アイデンティティを位置づけた。
「……「大衆的一般性」の醸成は、労働者階級を中核とし……た諸階級の国民統一戦線型人民デモクラシーを……形成す津条件へと転化させうるからである。……大衆への国民的神話の定着という大衆ナショナリズム状況が逆転されて、これが国民の解放の思想的テコとなる。……さらに、ここで、大衆ナショナリズムの排外的封鎖性は、プロレタリア・インターナショナリズムによって克服されるであろう。……
 経済的階級分立をふくみながらも、大衆的一般性の成立という社会形態の変化は、ここに政治的には国民統一戦線を提起するのである」(p152−153)


松下はかつての啓蒙哲学による市民的自由を「ブルジョア的」として否定するのではなく、むしろその「ブルジョア的」遺産を、大衆社会状況の中で確保することこそ、戦後の社会主義の課題であると考えた(p154)


彼は自らの大衆社会論を、個々の政治的事象を分析するものではなく、戦後日本社会の変容を理論化するための準備作業であったと位置づける。
この意味からすれば、大衆社会論は破綻したどころか、それ以降の現代社会論の前提となるものであった。事実、1960年代のあいだに、日本社会は急速に大衆社会化していった(p203)


彼は市民を特殊ヨーロッパ的な歴史的実体としてではなく、一般的に「私的・公的自治活動をなしうる自発的人間型」と位置づけ、デモクラシーの前提をなす個人の政治的資質として理解すべきであると主張した。そして、現代の問題は、マス・デモクラシーという前提の下でいかに市民的人間型を形成するかにあるというのである(p209−210)


少なくとも指摘できるのは、1970年代に定着したのは、「市民」の社会であるというよりも、日本型大衆社会――「マイホーム主義」と形容されたり、後に「生活保守主義」等と呼ばれることになる社会――であったということだろう(p230)
この日本型大衆社会は、人々が豊かな社会と高学歴を享受する安定した社会であり、群集心理に支配された非合理的な大衆による不安定な大衆社会というタイプとは異なる社会であったが、大衆社会論で議論となったマス・デモクラシーの負の側面、特に「私化による公的関心の喪失」は、1970年代以降には常態化したと言える(p230−232)


マルクス主義的概念である「階級」と、ネガティヴな「大衆」とに取って代わったのは、村上泰亮が1980年代に「新中間大衆」と呼んだものであったと言える(p233)
「新中間大衆」は物質的な生活に満足しており、豊かな社会が変化しないことを望んでいた。政治的には、人々は保守化して社会の変動を嫌い、公的問題には関心を示さない。経済的には、豊かな社会が肯定され、人々は私生活を楽しみ、私的消費者として多様な趣味やレジャーを追求する、というのが、概して1980年代日本社会の性格であった(p234)
「大衆」および「大衆社会」という言葉は、ほぼ「大衆消費社会」という意味で定着しつつあったようにも見える。それらを背景として、1980年代前半から半ばにかけて、「大衆」「大衆社会」に関する議論が再び現れるようになる。それらの議論には多くの論点が含まれてはいたが、あえて乱暴に整理するならば、そこには二つの視点があった。
現代日本社会は「多元社会」であるというものと、むしろ「画一化社会」であるというものである(p234)



松下にとって大衆社会は、工業化と民主化がもたらした社会形態である。それはファシズム全体主義への大衆動員の条件でもあるものの、同時に人々の自律的な運動や政治参加をも可能にする、「現代政治の条件」なのであった。
大衆の非合理性は「体制の論理」の貫徹によって押しつけられるものであり、大衆社会状況はそうした「体制」に対する抵抗の条件をも提供するものであった(p265)


彼にとって、大衆社会という社会形態は、事実の問題として、20世紀において政治と人間の自由を考察する場合に前提とせざるを得ないものであった(p266)
松下は、外から与えられたデモクラシーが人々の私化によって空洞化するという戦後日本の文脈において、参加デモクラシーを構想する中で「レス・プブリカ」を指向したと言うことができるだろう(p266)