作業確認。

論文構想発表会で出したヤツをタネにして、アウトライン的なものをそろそろ考えたい。
というか中心となる問いをそろそろ出さないと。


前回の発表内容


 ***(以下、前回までの内容)***
【題】日本大衆社会論は何を語ったか(仮)
【構成】未定


 ***(以下、前々回までの内容)***


【題】日本大衆社会論は何故生き延びたのか?(仮)


【ねらい】
 ドイツで生まれアメリカで発展した大衆社会論は、1950年ごろ日本へと紹介された。
 1950年当時、アメリカなどでは既に、ラザースフェルドらによる実証研究によって大衆社会論の印象主義的な仮定は「否定」され、「メディアが及ぼす効果は非常に小さいか、もしくは限定的である」という限定効果パラダイムが、少なくとも学説の上では、大衆社会論に事実上取って代わった。
 しかし大衆社会論が限定効果論とほぼ同時に紹介された日本では、後者による前者の駆逐が行われず、大衆社会論はその導入から約10年間にわたって、日本の社会学の主要なテーマとして君臨し、さまざまな論者によって日本独自の大衆社会論が展開された。
いくつか見るべき点はあるものの、印象主義的で非科学的な机上の議論に過ぎなかった大衆社会論が、それでも日本の論者たちを惹きつけ続けたのは何故なのか? その理由を、当時の日本の歴史的背景を踏まえつつ、独米日各国の大衆社会論を検討し、日本大衆社会論の特徴を考察することで探りたい。


【仮説】
マルクス主義に対するエリートや上流階級の危機感から、「市民」的社会観に立脚するマルクス主義に対してのアンチテーゼを彼らが必要としていたから?
・戦前/戦中の体験から、日本人には大衆社会論の仮定(操られやすい「大衆」)が経験的に率直に受け入れられるものだった?


【問うべきこと】
・独/米の大衆社会論と日本の大衆社会論の差異は?
大衆社会論が日本で導入されたのははっきりしているが、限定効果パラダイムはあまり見られなかった。そもそも限定効果パラダイムは日本へどのように紹介されたのか?
・「マルクス主義vs大衆社会論」という構図は実在したのか? だとしてもどの程度影響力をもつものだったのか?
GHQによる占領政策の影響は?
社会主義者たちの大衆社会論への見解は?


【問題点】
・「メディア論関連限定/大衆社会論全体」と「独/米/日」の2軸で考えると単純計算で6つの場面について調査することになる。流石に辛い。
大衆社会論が限定効果論に駆逐されたのはあくまでもメディア論の領域において。
前近代から近代(資本)社会への社会構造の変化(産業化、共同体の分解、個人のアノミー化など)に市民の「大衆」化を見る大衆社会論の全体が否定されたわけではない(そもそも大衆社会論は単一の理論があるわけではなく、一定の社会認識の仮定を共有する諸理論の集合である)。
したがって、議論の領域をメディア論に絞るか否かで語るべきことは変わってくる(日本での大衆社会論の興隆はその総体的なあり方に関連しているので、メディア論に絞ると言っても限度はあるが)。
・もし限定効果パラダイムの日本への紹介が上手くいっていなかったと判明した場合は……?
社会主義についてどこまで立ち入るべきか?(深く考察しだすときりがないが、絶対に必要)


【以上まで見た上で、前回の構想発表会で出た問題点・今後の方向性】
・「市民」でも「階級」でもない「大衆」を扱っているということ。その特色は何に見出せるのか?
・ヨーロッパの「大衆」論との違いとは?
・大正期などに点在していた「大衆」についての論じ方を調べるべきでは?
・今まで読んだものから出せる結論は何か?
・「1920〜1950年代の大衆社会論の発展」という研究史にしてはどうか?
・輸入前までの研究史整理をすべきでは?
・「研究史」の研究史、メタ研究史としてまとめてみては?


 ***(以上、前々回までの内容)***


【それから色々やってみて】
・もはや「生き延びた」ことはさほど重要ではない感。大衆社会論において、「メディア」の議論は一つの柱だが、核心ではない。当時の熱狂の中心には、「人間」「社会」「世界」といったものの本質的な変化への感覚がある。「変わった」という感覚は彼らにとって所与のものである。それも圧倒的に。
・わかっていたことだが、論じられ方が非常に多様であること。一時はグランドセオリーの座に就きかけていただけあって、日本での議論では50年代ごろ既に「産業化(機械化)」、「メディア/マスコミ/大衆文化」(「コピー」の力)、「デモクラシーの『誕生』」、「『家族』の変化」、「労働(運動)」、「心理(フロイトの大きな影響)」、「マルクス主義との関係」等々、相互に絡み合いつつ分散化。路線付けをはっきりしないと作業の進めようがない。
・「大衆社会論」の起源は発見。もとはギュスターヴ・ル・ボン(仏)の「群集心理論」に始まり、それを批判したガブリエル・タルド(仏社会学者。ドゥルーズにも影響)による「模倣」に基づく「公衆」の概念の形成を経て「大衆」へと至っている(清水幾太郎社会心理学』)。ただし時代が下ってくるとその流れを不当視して「大衆」を「特殊近代的なもの」と見る論者もおり……。
大衆社会論の「研究史」にあたるものの少なさ。メタ研究史以前に研究史が必要?
・ていうか「研究史」の書き方がわかりません!
・これまでの議論の共通点と相違点を比較・整理して体系化 ←これが研究史
・海外にまで手を広げるのは無理。清水幾太郎を契機とした、日本への「大衆」論の導入からその変化を辿ろうという予定。
・これから何を読むべきなのか? 古いものから順にあたるか、比較的新しいものを読んで一度俯瞰図を作るべきなのか。


 ***(以上、前回までの内容)***


【前回での指摘】
・欧米の議論をどのような観点から流用したのか?
・日本で使うにあたっての方向性を明らかに(意図したもの/意図せざるもの)
・日本の現代史の基本的な文脈を押さえておく必要
・これまでの議論の共通点と相違点を比較・整理して体系化 ←研究史はこれでOK


【それから色々迷ってみて】
・時間がなかったわけではなかったのに作業が進んでいないのは、(まぁ期末や就職活動等もあったにはあったが)具体的な中期目標などがなかったからかも。とりあえず、今日から「(ゼミとは別に)論文用の本を二日/一冊以上のペースで読み、ブログでまとめる」をノルマとします。


【仮説……というか、路線付け】
基本路線は、日本の50〜70年代の大衆社会論に限定、その中でも「デモクラシーの『誕生』」と「マルクス主義との関係(日本におけるマルクス主義の受容)」を主なラインに。
よって論文は「大衆社会論は日本における戦後デモクラシー(中でも特に「大衆」観)(とそこへのマルクス主義の影響)をどのように捉えていたのか」という研究史になり、同時に既存の同様の研究史の検討を含むものになる予定。
問題は、その(メタ)研究史を作る中で、どのような新しい発見・観点が主張できるかということ(当たり前だが……)。これに関してはもう読み進める中でなんとか見つけるしかないが。


以下、読み直して考えたこと

  • やっぱりもう「なぜ流行ったのか?」という問い方はやめておく。

というか、答えはほとんど出ている気がする。
大衆社会状況が原因となった社会変動等々を表す言葉としてしっくり来て、大衆社会状況が常態化したから廃れた。力いっぱい雑にまとめると多分そういうこと。

した。
大衆社会論の中でも、一握りのエリートとその他大衆によって構成された無階級社会、として大衆社会を捉えるものは、マルクス主義の階級論と当然相容れなかった。
また経済決定論(当時の主流?)をとるマルクス主義に対し、大衆社会論はその構成上政治・社会という別の側面から異議を唱えることになる。この点については大衆社会論側の認識が正しい。
1957年の松下を中心人物とした大衆社会論争については、よくわからない。

社会主義者たちって誰だよ(笑)
当時の日本の思想界ではマルクス主義が隆盛を極めまくっていたので、あまりこの問いに意味なし。

  • 「市民」でも「階級」でもない「大衆」を扱っているということ。その特色は何に見出せるのか?

この問いは重要。
初期の大衆社会論における階級と大衆の関係はよくわからないが、時代が下ると、上にも書いたように経済決定論固執する当時のマルクス主義に対し、異議が唱えられるのは当然だった。マルクス主義歴史観が新中間層の出現によって裏切られたことも大きい。人々がそこそこ満足な暮らしを手に入れたこと=「大衆社会統合」が成功したことが、階級闘争という理念へのモチベーションを失わせた。
一方、「市民」に対して「大衆」というときには「愚劣な」という意味、あるいは「大量な」という意味が与えられている。初期の大衆社会論では「市民」を理想像として「大衆」をその対義に置いての悲観的な警鐘が語られたが、次第に重点は「社会の前面にmany peopleが登場すること」の政治・社会的意味についての分析に移っていく。そこでは「市民」は「大衆」の対義語ではなく、没価値な「大衆」が目指すべき理想像とされる。

  • 基本路線は、日本の50〜70年代の大衆社会論に限定、その中でも「デモクラシーの『誕生』」と「マルクス主義との関係(日本におけるマルクス主義の受容)」を主なラインに。

……しません。
むしろやりたいのは、日本の大衆社会論(関連の幅広い議論)における「大衆」概念の変遷、扱われ方の変化みたいなものを、「市民」概念との対比をテコに書いてみたいな、と。


とりあえず今考えてるのは、ここまで。