村上泰亮「ゆらぎの中の大衆社会」(『中央公論』1985年5月)『村上泰亮著作集5』中央公論社、1997年

元来、massあるいはmass societyという概念は、十九世紀ヨーロッパの知的伝統の下で登場した概念で、明らかに負の価値を背負っている。このような負の概念としての側面を厳しくとり出して分析を構築したのが、最近の西部邁氏の一連の労作で、私の知るかぎり、日本では氏の先例はない。
 しかし一般的にいうと、日本語の「大衆」という言葉には厳しい否定のニュアンスは少ない。……知的貴族主義の伝統のない日本では、大衆または大衆社会という言葉は、いってみればかなり気軽に使われてきた。
 たとえば最近、『さよなら大衆』(藤岡和賀夫著)、『「分衆」の誕生』(博報堂生活総合研究所編)を主張する本が現れてきたが、これらの著者たちは、大衆ないし大衆社会を限定的にとらえたうえで、それをあっさりと否定してみせる。その軽快さは魅力的であり、西部氏の姿勢とは対照的である。(pp465−466)



「歴史の流れそのものをみれば、十九世紀末から二十世紀初頭にかけての時期と同じように、現在おそらく文明の型の転換が起りつつある」(p482)。「現在の状況の下では」、「外的条件の適応に成功することによってかえって内部の機能不全が生じる衰弱型」の転換が起こると村上は述べ、「その場合、先行文明は大衆社会状況を示しながら衰弱していくだろう」と指摘する。
 同時に新しい文明の胚芽がそこで生まれるが、先行文明の眼からみればその新しい芽は負の存在であり、先行文明の理想型と現実との間に生じるズレ、大衆社会状況の中から新しいエートス、新しい構成的パターンの実現可能性を探ることが課題である。
 状況は単純な「大衆社会」のそれではなく、時には大衆社会を思わせ、時には(アメリカ型文明の次に来るものとしての)X文明を思わせる「ゆらぎ」の中で眼を凝らさなければならない。