アントニオ・ネグリ=マイケル・ハート『帝国』(以文社、2003年)

(一部のみ読了)


 私たちの研究は、<帝国>の権力と<帝国>的主権の仕組みは、もっとも一般的な規模において、それらのグローバル性において対峙したときにのみ理解できるという仮説から出発した。<帝国>とその世界市場に闘いを挑み、またそれらに抵抗するという目標に向かって、それらと同じグローバルなレヴェルで何らかのオルタナティヴを呈示することが必要だと私たちは信じている。<帝国>から「切り離され」、固定された境界によってその権力から保護され孤立した個別的共同体を人種的、宗教的、または地域的な用語で定義しようとするどんな提案も、結局のところ一種のゲットーに陥るべく運命づけられている。境界でを画定された、ローカルな自律性を目指そうとする企てによって<帝国>に抵抗することは不可能なのだ。私たちはそれが何であろうと、以前の社会形態に戻ることはできないし、孤立した社会形態に向けて進むこともできないのである。むしろ私たちは、向こう側へと到達するために、<帝国>を突き抜けなければならないのだ。……実効的な仕方で<帝国>に抗することは、<帝国>それ自体の一般性のレヴェルにおいてのみ、しかもそれが差し出す過程を推し進めて現在の限界を乗り越えることによってのみ、可能なのである。(pp270−271)


マルチチュードは強制的に絶えまない移動状態に置かれるのではなく、ひとつの場所に留まることを享受する権利をもたなければならない。自分自身の移動を管理するという一般的権利は、グローバルな市民権へのマルチチュードの本源的な要求である。……空間に対する管理権を再領有し、こうして新しい地図作成術を構想するマルチチュードの力、それがグローバルな市民権なのである。(p497)


ポスト近代性への、そして生政治的な生産への移行においては、労働力はますます集団的で社会的な性質を帯びるようになる。「同一労働、同一賃金」といった旧いスローガンも、労働が個人に分割できず計測不可能なときには支持することはできなくなるのだ。資本の生産に必要なあらゆる活動には同等の報酬が賦与されてしかるべきだという社会的賃金の要求は、社会的賃金がじっさいには保証収入であるというようなやり方で、人口の総体へと子の要求を拡大していくのである。ひとたび市民権が万人へと拡大していくなら、この保証収入のことを、社会の構成員すべてに当然支払われるべき報酬として、市民権収入と呼ぶことができるだろう。(p500)