藪野祐三『先進社会=日本の政治』(法律文化社、1987年)

 すでに整理したように戦後日本の政治研究は、第一期=思想としての政治学、第二期=運動としての政治学、そして第三期=科学としての政治学という歴史をもっていた。このことは政治研究史上の単なる推移ではなく、政治研究の対象(現実の政治)の推移も同時に意味している。……
 そこでこの三つの時期について今少し詳しく展開しなければならないが、それ以前に、この時期区分にひとつの留保をつけ加えておく必要がある。というのも、わたしたちの関心は「先進社会=日本の政治」の現状と病理を分析することに主たる力点があり、……その意味で、政治史研究が目的とされているわけではない。だから、三つの時代区分も、厳密な意味でのそれではなく、一定の趨勢としての区分にしかすぎない。……だから、ただ一応の目安として、第一期は1945年から1960年、第二期は1961年から1973年、第三期はそれ以後と位置づけておくことにしよう。(pp62−63)


 この時代*1の特徴は、和魂洋才によって戦後を迎えた日本の政治状況の中で、とりわけ日本ファシズムとして結実した和魂のあり方をラディカルに問いかけることを基点としている。いいかえればこの日本ファシズム=和魂に替えて、西洋固有の民主主義的精神を日本に移植することを同時にその基点としている。端的にいえば政治的責任のあり方を明確に自覚した近代的人間を築き上げることが、最大のテーマとなった。(p63)


 第二期は、……この時代はすでに一定程度、日本における民主化が実現されていることを前提としている。例えば、一方ではすでに市民の間に和魂を謳歌する風潮を見つけ出し難くなっており――近代的人間類型の一応の定着――、他方ではたとえそれが強制的なものであれ、世界に冠たる民主化と平和を保障した憲法体制が定着している――組織的紛争の解決――以上、次に必要とされるのはこの組織を不断に作動させる運動の論理に他ならない。その意味で、政治を運動として語る側面に第二期の一番目の特徴が描出できる。(p64)


 第一期の政治学は、日本の民主化の可能性を、逆にいえばなぜ日本が民主化し得ないのかの原因を、思想的に腑分することを作業の中心としたが、第二期の政治学は、第一期のように思想的観照的方法では決して日本は民主化されることはないと考えた。だから、すでに一定の成熟を示した民衆を組織し、より高次の精神財の配分を求めて市民運動をおこそうとした高畠通敏や、精神的財の配分を更に政策的に実現しようとして「シビル・ミニマム」の指標を提示した松下圭一などが時代の中心となっていった。(pp158−159)


 ところで、松下圭一は「マス状況とムラ状況の二重構造」という問題意識から日本の政治分析に向かう。すなわち、ムラ状況に引き続き存在する封建的な遺制が存続する一方、他方ではマス状況の中から逆に日本民主化の芽が発生してきたというのが1960年代の彼の出発をなしている。……ここにマス状況をテコとした日本民主化を展開しようとする彼の姿勢を見ることができる。だから一方ではマス状況をネガティブにとらえる大衆社会論への批判*2と、他方ではマス状況をポジティブにとらえるための様々な装置、例えば自治の可能性をさぐろうとする。(p194)

*1:第一期=組織的紛争の時代

*2:松下圭一「日本における大衆社会論の意識」『現代政治の条件』