『破』観たよ。

一日につき千円ポッキリで映画とは良い時代になりました。
以下とりあえずの感想等。ネタばれにつき反転。


まだ公開六日目でかなり人も多かった(それもタチと頭の悪いのが)ですが、それがあまり気にならないくらいのめりこんでました。鑑賞し終わった後に余韻を残すのが良い作品だとすれば、まちがいなくその部類に入るでしょう。
エンターテイメントとしては文句なし。映像美も現在可能な最高のレベルにあると言って良い。ホントにいちいち凄かったが、サハクィエル戦での疾走描写が一番印象に残ってるな。


で、気になった点がいくつか。


・シンジの心情描写の変更。
『序』での印象に確信を受けた感じ。
ラミエル戦で強調されたシンジの「状況についていけない、ついていくのがやっと」感を布石として、今回のラストのゼルエル戦では、シンジの主体性が前面に押し出された形になってた。
旧TV版のラミエル戦でもシンジは一応主体性を垣間見せる(加持の説得もありもう一度エヴァに自分から乗る)わけだが、電源切れ→覚醒の描写以降、シンジの感情描写はなくなり、エヴァの怪物性の描写が主軸となっていた。
が、今回は最後までシンジの意思が消えなかった。
(ここでのシンジの意思の有無は「声」や「視線(眼光?)」の有無に対応していると考えてよいはず。)
シンジの料理描写も主体性の表出と捉えてよかろーし。
この差異を、カヲルがラストに呟く「シンジのしあわせ」につなげることになりそうな気がしないでもない。


・なぜ三号機パイロットがトウジからアスカになったのか?
まあ考えてもわからんのは前提として。
マリ絡みのイベント(あるいは今後のアスカ絡みのイベント?)を挿入するための物語上の都合?
しかしシンジが受ける影響について言うと、この変化はかなり大きいと思うのだが。
旧TV版では、トウジが「はじめての友達」だったことにバルディエル戦のもつ大きな意味があったはず。
乗りたくないのに乗らざるを得なかったシンジ、トウジと、乗りたいのに乗れなかったケンスケ、という構図もこれでほとんど語られないことになった。


・アスカの加持への好意描写がない。
むしろそれは尺の問題により省略されたとしても良さそうで、重要なのは綾波とアスカのシンジへの好意の描写がはやくも明確に打ち出されていることか。
どうする気だろ。
Airまごころを君に』まで含めた旧TVシリーズでは、最終的にシンジ的にはアスカルートに落ち着いた……か?とする解釈が多数派だと思うんだが、今回は完全にレイルートだよなコレ。


・リアリズムからドラマティズムへ?
展開ではなく描き方の問題だが。
主体性の強調によるシンジの主人公化であったり、初号機覚醒時のリツコの台詞回しであったり、エヴァという作品自体の特徴であったはずのリアリズム(キャラクターたちが、人知を超える事態に科学をはじめとした合理的な認識で挑むも敗れ、事態において受動化・客体化していく、という一貫した描写や、生々しいがゆえに乾いた人物描写など)が、全体としては引き継がれつつもところどころドラマティズムを重視した描写に変更されていて、それに何か捩れた印象を受けた。これも『序』で薄々感じていたこと。