今仕事から帰って来てだな。

今日もすんげー疲れたなーと思いながら小腹空いたなーと思いながら冷蔵庫を開けると半月前に暇つぶしに見よう見真似で作ったキュウリと人参のピクルスが入ってて作ったっきり完全に放置していたなーと思って試しに食ってみるとすげー美味いのなー。
うーん、やっぱ天才じゃねーの俺。流石だな俺。何やっても20点分の努力で80点取れるよな俺。

その代わりと言うべきかわからないが、80点分の努力をして残り20点を埋めようという努力がまったく俺には不可だった。
生まれてこの方努力というものをついぞせずに過ごしてきた。
できないのが先だったかしないのが先だったか、卵と鶏になってしまうが、結局のところできないからしなかったし、しなかったからできないままだ。

努力のできない自分自身に複雑な感情を持った時期もあったような気がする。
時期というか、時間にすると総計25分くらいの間。足してもそれで、それ以上は悩む努力が続かなかった。

最近はそれもまあ別にいいのではないかという気になってきた。
努力集中のできない人間に生まれ落ちたが、まあそれもそういうものだったのだろう。もはやなんとも致し方なし。だから俺は今日も何一つの努力をせずに、自分への追い風だけは抜け目なく探しながら生き延びている。
ひとつのことに打ち込むという人間ではないので目移りも早く、あれをやってはこれを忘れ、それをやってるうちにあれはどこいったっけの有様である。あれとかこれとか多くて健忘症の有様でもある。
それも数が揃ってくるとあれはどこいったっけと思っているときにこれを思い出してまた楽しめるので、なら別に悪くねーじゃんと開き直りはじめたためにもはや完治の見込みがない。治す努力の気配すら消えてしまった。

今日は仕事がそれなりに上手くいき気分がよいのでこんな風に自己肯定ができる。
俺も悪くないではないかと。
俺の人生も上手く流されているではないかと。
根拠などない。いつか手慰みに書いた小噺のように、明日には幸福と死が確率的に折り重なっていて、それが箱の中にあり続けていることだけが生きる希望といえばそうなのかもしれない。
なんとなくそれっぽく言ってみただけだが特に意味はない。特に意味はなくても雰囲気だけでそれっぽく見えるものだ。はっきりしていることだがお前等の人生にも特に意味はない。雰囲気があるだけだ。
その雰囲気も微分すれば化学的な発火の集合でしかない。皮膚感覚器で言えば圧点50万、冷点25万、温点3万、痛点200万があるだけ。映画がコマの集まりでしかないように、我々の「生」はこの点の発火の集合を事象世界として誤認した上にたゆたっているに過ぎない。
誰も世界を体験してなどいない。

キュウリの酢漬けが美味かった。
お前たちの今日の生に何があったか俺に知る由もないが、また性懲りもなく多くの者が仕事に嫌気が差し、恋に破れ、金をドブに捨て、時間を無駄にし、わけもなく自己嫌悪にでも陥っていたのだろう。
それでいい。お前たちは救われているのだから。
お前たちの絶望があるがゆえに、俺の酢漬けが美味かったのだ。
それがお前たちの救いであると、きっとわかると思う。
つまり


(寝落ちしました。続きが読みたい方はコメント欄で母親の下の名前でも叫んで下さい。もしくは俺の預金口座に百億万円振り込んでもよいと思います。あなたを日本の方と見込んで特別にお教えしますが、みんな後者を選んでいるようですよ?)