【書評】東浩紀、大澤真幸『自由を考える』(NHKブックス、2003年)

自由を考える―9・11以降の現代思想 (NHKブックス)

自由を考える―9・11以降の現代思想 (NHKブックス)

東浩紀大澤真幸の対談集。
第Ⅰ章の対談は2002年8月10日、大澤真幸の『文明の内なる衝突』の出版記念にジュンク堂書店池袋本店で行われたトークセッション、
第Ⅱ章の対談は同年11月10日、表参道の青山ブックセンターでの公開対談、
第Ⅲ章の対談は同年12月25日の対談。

(東) 大澤さんがおっしゃる「第三者の審級」の力がだらだらと弱くなるなか、にもかかわらずこの複雑な産業社会をなんとか維持しなければならないという逆説的な要請に応えるために、20世紀の百年間をかけて、新しいタイプの「知恵」というか、秩序維持の方法が台頭してきた。それがセキュリティの発想であり、情報管理の発想だと思うんです。
 僕はこれを、ミシェル・フーコージル・ドゥルーズの仕事を参照して、「環境管理型権力」と呼んでいます。対照的に、大きな物語の共有に基礎を置く従来のタイプの権力は「規律訓練型権力」と呼んでいます。

(第Ⅰ章、p32)

(東) 環境管理型権力は、考えても仕方がないことだ、と人に思わせる。けれども、法はそういう現れかたはしない。法はつねに、別の法もあたかもしれない、と思わせるようなかたち、つまりなぜこの法はこういうかたちをしているのか、とこちらが問いかけるような存在として現れてくる。だからこそそれは規範になるわけです。環境管理型権力に対してそういう問いすら存在しない。

(第Ⅰ章、pp45−46)

(東) 哲学の伝統は、法や規範の無意味さを教えるとともに、その無意味さこそが法や規範を機能させていると説く。これがラカン派のテーゼだし、ある意味ではヘーゲルまで遡れる。大澤さんもその伝統にたって議論されているのだと思います。僕はその有効性を疑うつもりはないのですが、そういうヘーゲルラカンジジェク的な無意味性よりも、さらに彼方にある、「無意味だ」と思うことすらも無理な徹底した無意味性があるのではないか、と思うのです。こう話すとひどく抽象的で神学的な話に聞こえてしまうかもしれませんが、そんな深遠なことではありません。イスの話*1です。人間は、イスが硬いとか柔らかいとか、そのていどの問題でけっこう簡単に生きたり死んだりしていく。それは哲学からもっとも遠い。僕はその場所を「確率」とか「郵便」とか「動物」とか呼んでみているわけです。最近だと「環境」とか「アーキテクチャ」と呼んでいる。呼び名は扱う対象と目的によって違います。

(第Ⅰ章、p47)

(東) これ*2は一種の権力です。ウィンドウズを使うことを強いられているのだから。しかしこれは法とは異なる。規律や倫理でもない。多くの人にとってウィンドウズは透明な環境になってしまっている。(中略)環境になるということは、それ以外の可能性があったんじゃないか、と問うことそのものがなくなってしまうことです。

(第Ⅰ章、p48)

(大澤) たとえば最近だと住基ネットの問題がありますね。住基ネットには僕も反対なんだけれども、しかしメディアで流れているその反対の言説というのが、どれも歯切れが悪いんですよ。というのも、東さんも指摘していることですが、古典的な権力のイメージで皆、反対しているんですよね。つまり、住基ネットがなぜいけないのかと言われると、プライバシーの侵害とか、表現や思想・信条の自由の抑圧とか、一所懸命に古典的な理由を考えざるをえないわけです。けれども、権力は――「権力者は」ということではなく、匿名の権力のメカニズムということですが――それとは違う論理で動いている。つまり、権力が動いている根拠を見出そうとしても、ほとんど「大義なき便宜」のようなものしか思い当たらないので、それに反対する論そのものが噛み合っていないという感じがするのです。

(第Ⅰ章、pp55−56)

(大澤) 誰でも安全は欲しいので、こういうリアリズム*3にもとづく、管理型権力の強化に対して、批判的なチェックや歯止めの論理を打ち立てるのは、結構難しい。そこで、批判側としては、表現の自由とか思想の自由とかいったたいそうなものをもち出すことになる。つまり、権力の過剰部分のカウンターパートとして、それによって抑圧されている何かを見出そうとするわけです。しかし、こういった権力批判は、権力の実際の作動をまったく逸した、的外れなものであるように思うのです。

(第Ⅰ章、p58)

(大澤) 住基ネットに話を戻すと、事態は、もっと漫画的に誇張されている。その場合には、「セキュリティ」という最小限の大義すらないからです。つまりこうです。ここに、世界最大規模の個人情報のデータベースがある。なぜあるか問いただしてみると、その存在を正当化するにたる理由らしきものは、ほとんど見出せない。「住民票が取りやすいだろ」とか言われるわけで、それはそうですが、あまりに些細で、これほどのデータベースが存在している理由としては、無に等しい(笑)。そこで、その過剰性を説明するべく、批判側としては、表現の自由とか、今はない将来の懸念とかをもち出すことになるわけです。つまり何とか古典的な脅威というものを見つけ出そうとするわけです。(中略)権力の実際の作動はすでに新しいのに、それに対する批判的な理解は、これを、古典的な権力のほうに問題を回収して解決しようとする。(中略)
 つまり、われわれの自由が「わかりやすく」抑圧されている(たとえば、明らかに邪悪なやつに、何かをしたり考えたりする自由が抑圧されているような)ということはないわけです。(中略)
 だから今進行しているのは、大事な思想を表現する自由とか、重要な結社を作る自由のような、何か「崇高な自由」が抑圧されているということではないんですよ。古典的な図式のなかで理解しようとすると、「キセルをする自由」とかあまり大きな声では言えないことが封じこめられている、ということになってしまう。逆に言うと、現在の権力のほんとうの意味を理解するためには、自由の概念そのものを刷新していかなくてはならない。さもないと、何か根本的におかしいことがあるという直観はあっても、それをうまく記述したり、説明したりすることができないんですね。

(第Ⅰ章、pp59−61)

(東) 人には重要なことが二つあって、まずひとつは、所与の条件――僕が男性で日本人で1971年に生まれて……といった条件――を引き受けるということです。ラカンふうに言えば主体の刻印をもらうということですね。しかしもうひとつ大事なこととして、その条件を人と取り替えることができると思う必要がある。その交換可能性の想像力が働かないと、社会の前提となる共感が生じない。(中略)
 ユビキタス・コンピューティングによってつねに「あなたはだれだれですね」と個人認証するような社会では、主体の交換可能性に対する意識が縮減していくのではないか。
 国民総背番号制の反対者は、ある日突然役人に「お前は何時何分から何時何分まで東名高速を使っていただろう」と言われる、といった全体主義的なイメージを語る。でもおそらくそんなことはない。(中略)しかし、膨大な量の個人情報があちこちに蓄積され、自分ではコントロールできない状態で利用されているということは間違いない。最近はユビキタスという言葉がはやりですが、それは要は、生活のすべての場面で自分の正体が明らかにされてしまう社会です。(中略)僕たちは、いつどこにいっても匿名になれそうにない社会を作ろうとしている。(中略)
 いずれにせよ、匿名掲示板や出会い系サイトの登場で最近やらっと匿名性への恐怖が煽られていますが、ほとんどの場合は真の匿名性ではないんです。むしろ携帯やネットは、かつてなく非匿名な媒体です。位置情報や通話記録やアクセスログが残るのだから。むろん、暗号を使ったり、海外のプロクシ・サーバを多段で通して匿名掲示板にアクセスすれば話は別かもしれませんが、普通に人が匿名性だと思っているものは、実際には匿名性でも何でもない。むしろ私たちの社会は、現実世界でもサイバースペースでもどんどん匿名な領域を縮減している。監視カメラが林立した歌舞伎町でクレジット・カードで支払っているような人は、世界に向けてそのことを宣伝しているようなものです。あとですぐその事実はわかってしまう。昔のほうがよほど匿名性は高かったんです。(中略)

(大澤) ほとんど賛成ですが、そうは言っても匿名性を保つということがいかに重要かを、うまく説明することがまず難しいんです。(中略)
 でも、一方で我々はそれを便利だとなどと思ってしまっているところがある。(中略)たとえばアマゾンとかで本を買えば、自分が買った本の履歴が残るわけですね。そこで、ある日アマゾンのページをクリックすると、過去の履歴から類推して「客観的に」お前が欲しいはずの本というのを推薦してくれるわけですよ。(中略)自分が内面的に自覚しうる欲望とは無関係に、客観的な欲望が決定されてしまうわけです。(中略)客観的に主体化される状況であるわけです。これは、規律訓練型の権力による、内面的な主体化とは異なる、いわば、純粋に外面的な主体化のメカニズムです。
 これは非常に不気味なことです。でも、この不気味さは、十分には気づかれていない。(中略)
 だから、東さんの言っていることには賛成で、今の状況が人間にとって由々しきことだというのはよくわかるんだけれど、この「由々しきこと」をどのように人にわかるように伝えるか、というのはすごく難しい。それが的確にできないと、再三述べてきたように、いきおい無理なことを言い始めてしまう。そういうことを続けていると、今に表現の自由が失われるかもしれない、とか。(中略)
 (東) とにかく今は、「表現の自由」あるいは「報道の自由」という言葉が、論壇的、マスコミ的に何かマジック・ワードになっていて、その言葉を叫んでいれば何か言った気になれる。でもそれが市民への説得の技法として役立っているとも思えません。だいたい、表現者ではない多くの人々にとって、「表現の自由」や「報道の自由」はそんなにクリティカルなイシューじゃありませんよ。

(第Ⅰ章、pp63−69)


実にどうでもいいけど、個人的にはアマゾンの「おすすめ」で買いたいものに出会ったことなんて一度も無かったりして。
一定の界にあるモノを漫然と消費している人ならともかく、おいしいものだけ摘み食いタイプとは相性悪いみたいですねアマゾン。


書評しようと思ったけど引用の言い換えにしかならなかったので略。

*1:ジョージ・リッツァ『マクドナルド化する社会』で、マクドナルドの消費者管理の一例として挙げられている「イスの硬さ」の話

*2:OSにおけるWindowsの圧倒的シェア

*3:「テロリストはどこにいるかわからない!」