【書評】東浩紀、大澤真幸『自由を考える』(NHKブックス、2003年)(第Ⅱ章)

(大澤) 「東さんによれば、現代のオタクたちは、個々のシミュラークル(=小さな物語)を消費するだけではなく、そうしたものを横断するデータベースを消費の対象としている。(中略)もう一つの東さんの重要な論点が、動物化ということです。アレクサンドル・コジェーヴの論点などを参照しながら、人間が快楽を享受するやりかたが動物化してきた、というわけです。たとえば、オタクがゲームに耽溺するさまは、環境を否定する精神の営みが後退し、反射や条件反射に近いものになっている。(中略)
 結論的なことを先に言ってしまえば、オタク論をベースにした東さんの現代社会論の、先にあげた二つの論点のあいだにつながりがあるのではないか、ということです。つまり、データベース的な欲望の先端に、動物性が登場してくるという感じです。現代社会における、ある種の「象徴界」の肥大、つまりシニフィアンの世界の決定的な肥大が、動物化へと、メビウスの帯のように転回している、ように思える。
 少し具体的なイメージを与えるために、オウム真理教の例を出してみます。(中略)
 わかりやすくするために話を単純化しますと、オウムというのは皆さんよく言われたように、あるいは僕も「虚構の時代」という言葉で書いたように、「ヴァーチャル・リアリティ」の世界を生きているんですよね。さまざまなシミュラークル(=小さな物語になるようなアニメやマンガ)から、物語の断片、装置、キャラクターを借りてきて、それを若干アレンジして、複合し、自分たちの世界を構築している。(中略)ところで、こういう、ヴァーチャル・リアリティの世界のなかで生きている者に対する、紋切り型の批評というのがある。たいていの批評家っぽい人はこう言うのです。「彼らはフィクションの世界だけで生きており、そこに身体性がない」と。
 ところが、実際に、オウムのことを知り、彼らに接触することで得られる印象は、こうした評論家的な言明が意味していることとは、まったく反対のことなんです。確かに、一方では、オウムはすごく発達したヴァーチャル・リアリティというかファンタジーの世界を作っている。しかし、他方で、同時に彼らは、身体の直接性を享受することへの、強い志向性をもっている。(中略)他方で彼らの体験の中核にあるのは、ある種の修行であり、そして、彼らが「イニシエーション」と読んだ、ヨーガ風の技法です。これらは、自分自身の身体に直接に苦痛を与えることによって、あるいはまた、麻原の身体を――現実的にあるいはそれこそヴァーチャルに――活用することによって、身体的、あるいは間身体的な感覚を変容させることです。ドラッグも頻繁に使用されていた。(中略)
 だから、整理すると、身体性から遊離して、ヴァーチャルなデータベースへと向かっていくような契機と、逆に、身体の動物的な享受への欲求とが、共存しているように思える。考えてみれば、オウムのような極限的なケースを見なくても、こういうことは言える。(中略)サイバースペースは、むろん、脱身体的なヴァーチャルへのベクトルを秘めていますが、しかし、そのもっとも一般的な使用法のひとつは、ポルノグラフィでしょう。つまり、脱身体性と、動物的な身体性とが、いわば、無媒介に共存している。


(東) まさに同感です。一方においてきわめて具体的な身体というか、直接性への回帰があって、他方にはきわめて記号的なヴァーチャル化した身体がある。この両者が乖離したまま共存しているのが現代社会の特徴だというお話だったと思うのですが、それは同意見です。
 ただし、もし僕と大澤さんでひとつ意見が異なるところがあるとすれば、大澤さんはその二つの契機がある種の弁証法的な構造でつながっていて、抽象化がどんどん進むとむしろ具体性に回帰してくる、というメビウスの帯あるいはクラインの壷的な循環をイメージしていらっしゃる。(中略)
 けれど僕は、その両者は、弁証法的な過程というより、人間のなかにもともとその二つの契機が共存していて、その差異が前面に出てきたというように思うんです。(中略)
 (中略)ジョルジョ・アガンベンというイタリアの思想家がいます。(中略)彼の『人権の彼方に』(以文社)という論文集の冒頭に、「<生の形式>」というエッセイが収められているんですが、そこで彼は、人間の生を、「ゾーエー」*1と「ビオス」*2という二つのギリシア語から考えているんですね。(中略)そして、このゾーエーとビオス、生物的な身体と政治的な身体の両者を何となく接合させ、コントロールするものとして、フーコーが注目し、前回の対談でも話題になった「生権力」「生政治」がある。
 僕はこの区別はとても示唆的だと思います。それというのも、今、両者の距離がすごく離れていっていると感じるからです。一方で政治的な身体の場はどんどんシミュラークル化しているというか、アガンベンも参照しているギー・ドゥボールの言葉を借りれば、「スペクタクル化」している。政治的空間、公共圏そのものがヴァーチャル・リアリティ化していて、また、人々の社交もかつてなくヴァーチャル化している。ところが、他方で、「剥き出しの生」、つまり生死をコントロールする権力はきわめて強力になってきている。セキュリティの強化です。
 (中略)アガンベン自身は、現代社会ではむしろゾーエーとビオスの区別がなくなっていると記しています。(中略)しかし、僕は、現代社会で起きているのは、むしろ、生物的身体の編成と政治的身体の編成が大きく乖離し、それぞれが不調和のままラディカルに突き進んでいるという事態だと思います。

(第Ⅱ章、pp92−98)


オウム関連の事件が一番話題になっていたころというと1994年あたり、俺は小学校中学年くらいか。
そのうろ覚えな記憶だと、当時からマスコミでもオウムの身体的な側面(過酷な修行、ヘッドギア……)は取り上げられていた。「彼らはフィクションの世界だけで生きている」という言明は確かにあったけれど、身体/フィクションという二分はその語りの軸ではなかったような。むしろその身体的な側面もフィクションに向かうための「馬鹿馬鹿しい夢想の産物」だという、現実/フィクションの二分法が主流ではなかっただろうか。
そしてそこへの「現実に帰れ」が大方のコメンテーターの結論であり、「現実って何?」という問いが宙吊りにされていたのが当時の風潮だった。
確固たる「現実」があり、そこからの逸脱が反社会的とされるような(多分この末裔が「ゲーム脳」論)、言い換えれば、人々の間では「現実」がまだ「大きな物語」として存在していた。
ま、これは本書の本筋とはあまり関係ないか。

このゾーエーとビオス、生物的な身体と政治的な身体の両者を何となく接合させ、コントロールするものとして、フーコーが注目し、前回の対談でも話題になった「生権力」「生政治」がある。

この理解って正しい?>Foucaultlian君
俺は生権力ってゾーエーに対して発動するものだと理解してたんだけど。
(でもそうなるとE口先生が言った「bio-権力」という言い方がねじれたものになってしまう? むしろ「zoe-権力」?)


(東) たとえばコミュニケーションにしても、私たちの社会は、一方において言葉のスペクタクル化が進んでいて、何が本当で何が嘘かわからないまま、ほとんど自動機械のようにしゃべるのがコミュニケーションだということになっている。(中略)にもかかわらず、その貧しいコミュニケーションにしがみつき、何とかコミュニケーションの幻想を維持しようとしている人がとても多いのが、現代社会です。私たちのビオスはそこまで希薄になっている。
 ところが他方で、では身体性が完全に希薄かと言えば、まったくそんなことはない。身体的快楽に奉仕する装置、言い換えれば、ビオスではなくゾーエーを豊かにする装置がこの世界に満ちている。

(大澤) 今、2ちゃんねるの例が出ました。*3それは、コミュニケーションの一種なんだけれど、ほとんど内容のないコミュニケーションに陥っていて、会話の自動生成プログラムとのやりとりとほとんど同じことになっている、というわけですね。(中略)しかし、コミュニケーション、言語的なコミュニケーションこそ、もっとも人間的なことだと、普通考えられていますね。その2ちゃんねるの内容のないコミュニケーションというのは、コミュニケーションをそれ自身として享受していると解釈することもできるわけです。そうだとすると、2ちゃんねるのコミュニケーションの例は、もっとも人間的であるはずのコミュニケーションを、コミュニケーションとして純化したときに、その人間性を否定してしまう、ということを示しているわけです。(中略)
 (中略) 純粋な関係性が歴史の上で最初に登場したときには、一見、もっとも人間的なコミュニケーションだったわけですが、それを突き詰めて今日われわれが目の当たりにしている純粋な関係性は、むしろ、動物的であったり、機械的であったりする。

(大澤) つまり東さんが提示した問題というのは、言ってみればコミュニケーションとしてのコミュニケーションを本当に純化していった場合に、つまり、コミュニケーションをレイバーやワークへの奉仕から解放し、純粋に自己準拠させていった場合には、コミュニケーションは、ただの機械との相互交換と同じようなものになっていく、あるいは動物的な反応に近いものに帰っていく、ということだろうと思うのです。アーレントの前提では、もっとも「人間的」な水準が、逆に、非人間的なものへと反転していくわけです。

(第Ⅱ章、p107)
(第Ⅱ章、pp109−110)
(第Ⅱ章、p112)


この3部分の指摘は鋭い。
実感として、今の20代くらいの若者はみんな薄々この事実を感じているんじゃないかと思う(他の年代も多分似たようなものかと思うが、どうだろう)。


「コミュニケーション」はもうcommunicationとは、意思疎通と訳されていたそれとは別のものとして存在している。


いまの日本において、「コミュニケーション」についての俗な語られ方には二つある。「コミュニケーションが大事」というときのそれと、「コミュニケーション能力」というときのそれだ。
それは、前者では「(継続的な)接触という単なる事実、意志伝達ではなく他者消去的な空間を創設する反復行為」を、後者では「目的遂行のための、事実の簡明な伝達あるいは説得」を指している。もちろんそれらはcommunicationにも内在しているが、communicationが「コミュニケーション」に変わった(すりかえられた)とき、抜け落ちたものがあると俺は感じる。「他者のざらつき」のようなものがそこにはない。


前者においては、それでもその「コミュニケーション」が行われているのは、マクルーハンの言葉を引用すれば「メディアはメッセージである」からだろう。「コミュニケーション」はもはや白紙の手紙を延々と送り続けているのと大差なくなっているが、それでも手紙は届いている。「手紙が届いている」という事実が唯一そこにあるメッセージである。その寂しい世界を絵文字と(笑)が覆う。
俺たちは声よ届けと願いながら(笑)うばかりだ。


実のところ、大事なのは「伝わる」ことであって「伝える」ことではない。
野矢茂樹の言葉を使えば、私たちの心=意味秩序(意味の変換機)が有意味に共存している(つまり他者として在る)以上、伝達は必ず失敗する。


「若者のコミュニケーションの希薄化」というと紋切り型のおマスコミ言葉にも聞こえてしまうが、むしろ実態は、伝えるべき内実が増加していないにも関わらず、情報技術が量の増加へと独り邁進してしまったことが大きいだろう。
ぶっちゃけた話、俺ら普通の人間に、伝えなければならないことなんて大してなかったりして。そこを無理して、自分を表現者だと勘違いして書くから、なんともまあ、世の中ポエムだらけ。


(東) 20世紀の思想は、経験的な身体性から超越的位相がいかに結晶化し、社会秩序のなかに組みこまれるのか、その理論構成を一所懸命やってきた。しかし、今出現しているのは、そんな過程はそもそも機能しなくてもよいのではないか、剥き出しの生は剥き出しの生として管理すればよいのではないか、という荒々しい社会です。
 (中略)おそらく20世紀の思想は、(中略)ゾーエーが直に管理される社会を意外と考えてこなかった。ゾーエーの管理といえば強制収容所のような例外状態を想定してしまい、社会について考えるときは、ゾーエーをビオスに、つまり生物的身体を政治的身体に変えることばかりを考えてきたのではないか。

(東) 20世紀の思想は、生物的身体が政治的身体に、つまり動物が人間になった後の社会のことばかり考えてきた。その果てがシミュラークル化であり、ポストモダン化だったわけだけれど、ところが今や時代の針はぐるりと回って、秩序編成の焦点は、シミュラークルどころか、剥き出しの生の管理(セキュリティ)になってしまった。これはもはや哲学の領分ではない。こちらについて語るのは、哲学の洗練された言葉よりも、フィールドワークやカウンセリングの言葉の方が適している。(中略)
 ではそれでいいのかといえば、僕個人はそうも思わない。データベース的な領域と言ってもいいし、情報管理的な領域と言ってもいいし、生物的身体の領域と言ってもいいんですが、こちらの秩序の様態について、多少とも思想的で抽象的な用語で語る用意はしておいたほうがいいと思う。ただ、そのために必要な言葉がほとんどないという感じがするんですね。

(東) 僕が不思議に思うのは、(中略)抽象性から動物性へ転化する過程ではなくて、むしろ両者が何の葛藤も起こさず共存してしまうことなんです。(中略)
 今や、抽象化され、虚構化され、スペクタクル化され、シミュラークル化された「人間的」というか、「サイボーグ的」な身体と、剥き出しの「動物的」な身体が、ともに存在している。それは誰もが統合できないまま抱えていて、無理に統合しようとすると、酒鬼薔薇聖斗オウム真理教のようなアノミーな行動につながってしまう。

(大澤) ある局面から見ると自由で多様な社会になっていて、別の局面から見るとものすごく管理されている社会になっている。(中略)二つの記述が矛盾して見えるのは、二つをつなぐリンクがよく見えていないからだと思う。二つをつなぐ補助線のようなものが、見出されていないのではないか。

(東) OA化が進められた*4、自動改札が導入された*5、新しい著作権の管理システムが導入された、というときに何かが失われる。少なくとも私たちはそう感じる。ところが、その失われたものについて説明しようとすると、犯罪を犯す権利だとしか答えられない。「それ」を名指すことはできない。(中略)
 その感覚を言葉にすると、今のところは、犯罪を行う権利だとしか表現のしようがない。しかし、私たちは何かをそこで感じているわけだから、その何かを正当な権利として汲み上げてくる論理が必要で、ここでこそ法学者や社会学者や哲学者が活躍するべきではないか。ここでは、単なる技術的検討だけではなくて、犯罪を行う権利を別の権利に組み換える、人文的な「概念の作業」が必要になってくるのではないかと思います。

(第Ⅱ章、p138)
(第Ⅱ章、pp140−141)
(第Ⅱ章、p146)
(第Ⅱ章、p147)
(第Ⅱ章、pp152−154)


この部分には、ああ、納得、という感じで、まだ語る言葉が出てこない。
ただ一つ思ったのは、「犯罪を犯す権利」は、裏返せば「犯罪を犯さない権利」ではないか、ということ。誰にも縛られず、ただ自分の意思で「正しいこと」を選ぶ、その自由が奪われているのではないか? それが不可視化され、意識されないからこその動物化ではないだろうか。

*1:「生物的身体」。動物的な生。アガンベンはこれを「剥き出しの生」と呼ぶ

*2:「政治的身体」。社会的で象徴界的なネットワークのなかに登録された人間としての生。アガンベンはこれを「生の形式」と言う

*3:比較的簡単なプログラムで、2ちゃんねるそっくりのスレッドがかなりそれらしく自動生成できること

*4:京都大学経済学部が履修登録をOA化した際、一部の学生から「学生の二重登録の権利が失われる」という批判が出た

*5:つまり、キセル乗車が非常に難しくなった