後藤道夫編『ラディカルに哲学する4 日常世界を支配するもの』(大月書店、1995年)

 あらかじめ議論の方向を示すと、本稿では、現代帝国主義と古典的帝国主義の違いと同一性を次のような形で論理化しようとつとめた。両帝国主義は、ともに、国民国家という政治的枠組みと資本の本来的国際性とのズレと衝突に根拠をもち、その矛盾を国民国家の権力の動員によって解決しようとする衝動と行動である。その衝動と行動は再び国民国家の国内政治統合の諸原理とのさまざまな矛盾をひきおこす。古典的帝国主義では、国内の政治統合のための大衆社会化の進展と外部へのナショナリズムの拡張が特徴的であるとすれば、多国籍企業の高度な蓄積水準と世界展開を新たな基盤とする現代帝国主義では、帝国主義のインターナショナル化が進み、ナショナリズムインターナショナリズムの、後者を主軸とする二重の帝国主義が生じている。同時に、これまで国民としての同権化を目指していた大衆社会化の流れが転機を迎え、大衆社会は再び収縮の方向に向かいはじめる。(p236)


 多国籍企業を現代の独占資本の基本的形態とみた場合、古典的帝国主義時代の独占資本との最大の違いは、その利益がその本国の国家あるいは「帝国」による保護主義や経済ブロック化と調和せず、自由貿易と資本の自由移動を必要としているということである。
 それは、第一に、多国籍企業が国際的な企業内分業と国際的な企業内取り引き、さらに企業内資金移動を大規模に発達させており、しかもそのあり方を各国と世界の経済環境の変化に応じて絶えず変化させているためである。商品、資本、資金の移動に制限が多ければ、このグローバルな配置と流動のうまみは激減する。……
 第二に、これと密接に関連して、それぞれの多国籍企業は他の多国籍企業、現地企業との膨大かつ複雑な取り引きと提携のネット・ワークを作り上げている。……国家による保護主義はこうしたグローバルな取り引きとネット・ワークの発展を阻害する。
 第三に、多国籍企業はこうした枠組みを拡大しつづけるために、新たな投資文やと投資地域を絶えず求めている。発展途上国の各種の保護措置、規制措置はこうした運動の阻害物として、系統的に敵視され、除去するよう働きかけを受ける。
 第四に、現在の多国籍企業は、為替取り引き、各種の金融投機をきわめて膨大な規模で行なっている。こうした為替と金融商品の取り引き、投機による利得のために、金融上の規制措置は多国籍企業の利害に反するものとなる。(pp254−256)


 現代帝国主義の政治的主体はアメリカを中核とする先進資本主義諸国の国家同盟である。ところで、その国家のあり方じたいが、二回の世界大戦を時期的な画期として大きな変容ととげている。以下の議論の前提として、次の二点にふれておく。
 第一に、国家が女性を含む普通選挙権を一般化・実質化し、かつ社会構成員の多くに、国家の一員たる自覚と国家への権利請求が可能な生活水準と文化・教養水準を、さまざまな回路で保証するようになった。大衆社会、大衆国家とよばれる段階である。その結果、国家は自己の行動を大衆的に正当化しつづけ、国民の大衆規模での政治統合にたえず配慮を払う必要にせまられることとなった。「強いアメリカ」というタイプの正統化の論理から、政治と国家が経済成長のために存在するかのような1960、70年代型日本社会の政治の正統化論理まで、そのイデオロギー的性格は多様であるが、全体としては、ますますその国民経済の競争力の強化、経済成長と雇用の確保などの、国民経済の安定的な舵取りの能力が、大衆国家の正統化にかかわる課題としての位置を高めている。
 第二に、大衆国家の問題とも密接に関連して、現代の先進資本主義国の国家は、市場あるいは経済への大規模な介入を行ないながら、大衆の消費力の保持に配慮し、資本の蓄積を援助しつづける国家となっているという問題である。介入主義国家という言葉がその広い特徴をあらわすものとして適当だろう。国家じたいが巨大な経済主体として登場するとともに、膨大な法規則、行政指導と一体になって、市場に介入する。その介入の形態にも、西欧型の福祉国家タイプと、日本のような産業関連基盤と資本蓄積に対するより直接的な援助・介入という企業主義タイプとがある。(pp273−274)


 自由貿易保護主義、為替管理の撤廃と維持、各種規制の緩和と維持、などをめぐって、多国籍化している企業と国内型の企業、多国籍化しやすい部門としにくい部門、多国籍企業と中小企業や業者、などとの間に対立が生ずる。いずれも多国籍企業側に有利な状況が蓄積されていくことは明らかだが、その趨勢のなかでも、こうした対立は再生産されつづける。さらに、発展途上国に対する帝国主義的介入政策についても、国民のイデオロギー的な動員と正統化のレベルとは別に、経済的特質をめぐる対立が生ずる。要するに、現代帝国主義諸国の国内政治統合は、多国籍企業と非多国籍企業部門との間の闘争によって大きく損なわれざるをえない。そのため、たえず政策方向の動揺と支持基盤の再編成が行なわれる。……
 この点では、帝国主義国家同盟の結束は、多国籍企業総体の利益を国際的ルールとして制度化することによって、そうし動揺を外から押さえ、先進国の国内からの各種の要求を抑圧する機能をもっている。(pp283−284)


 「大衆社会」そのもの、および、大衆社会的資本主義が蓄積してきた文化・文明ストックが現在の世界経済のヒエラルヒー構造のなかでもつ、巨大な社会変動誘因としての役割については、別稿を参照していただくこととし、*1ここではまず、国民国家の国民の社会的、政治的統合が、大衆社会的資本主義の段階でようやく安定的な土俵を獲得したという事情を確認しておきたい。
 これまで、古典的帝国主義時代との対比で、19世紀イギリス型の自由競争段階の資本主義社会が「典型的」な資本主義である、という把握がある種の常識となっていた。
 だが、国民国家の政治的・社会的な「秩序」の安定性という点からみると、大衆社会より以前には難点がありすぎる。大衆社会以前の段階のように、名望家社会あるいは市民社会という国民国家の中核サークルの社会と、現実の経済の担い手の総体からなる社会とが、その範囲と構造について、全く別々であれば、後者の成員たちの政治的・社会的統合の困難は、名望家社会のメンバーのほうにも、国民としての同一性の感情よりも他国の同質のサークルとの親近性を強く感じさせる原因ともなる。パリ・コミューンの際の支配層の行動、ロシア革命の際の上層市民たちのドイツ軍に対する期待、などはその一例であろうし、近年の開発独裁型国家によくみられる支配層の腐敗したコスモポリタニズムもその現われだろう。
 大衆社会化によって、労働者階級は、国民国家の成員として社会的・政治的に統合されるようになり、19世紀型のインターナショナリズム、および、市民社会あるいは名望家社会からの疎外感は衰退した。過程を省略して、近年の統合の仕方に限れば、福祉国家型と現在の日本の企業主義タイプを二つの大きな類型として指摘できる。
 この類型の違いは、現在の日本の他の先進諸国との種々との違いを説明する有力な視点となるが、大衆社会的資本主義が労働者階級をナショナルに囲い込む、という基本的傾向の点ではさほど変わりはない。……
 つまり、19世紀の産業資本主義、古典的帝国主義、現代帝国主義という時代の変化を念頭において、長いタイムスパンでみた場合、典型的な資本主義社会というものがあるとすれば、それはむしろ現代の大衆社会的資本主義だと思われる。マルクスが指摘した、形式的な権利保証とその実質的な意味の店頭という構造が国民国家のほとんどすべての成員にあてはまるためには、大衆社会的資本主義の段階が必要であった。(pp289−290)

*1:「現代の社会変動をひきおこすもの――『資本主義の最高段階』(?)としての大衆社会的資本主義」(『社会主義を哲学する』(大月書店、1992年))、「大衆社会論争」(『戦後思想の再検討 政治と社会篇』(白石書店、1986年))