鈴木幸寿「大衆化と大衆社会」福武直編『講座社会学第七巻 大衆社会』(東京大学出版会、1957年)

 資本主義体制においてみられる独占化と経営のビューロクラシー化、社会主義体制においてすらみられるビューロクラシーの存在は、一方では労働者群と経営者・新中間層の階層分化を明確にすると同時に、そこで働き、勤務する人々の組織が、階級対立という現実をふまえながら、新しい方向への集団化を企図せしめる可能性を充分に与えている。ここにあらわれてくるのが、大衆化現象なのである。
 機械時代の叡智が独占化を生んだとするならば、そのマイナスの項として生れたのが大衆化ということになる……(p7)


 大衆化を規定した経済的与件の変貌は、一応、労働組合を中心とする「集団の噴出」を契機としてあらわれたかのようにみえるが、独占に伴う産物としての労働組合の組織拡大の方向もさることながら、大組織企業体内部における人間としての在り方に、むしろ問題は伏在しており、またこれが大衆化を促進していると考えてもよいであろう。
 経営体内部における問題として先に述べたのは、ビューロクラシーであったが、ビューロクラシーは、それ自体経営体の秩序と成績向上の手段であり、いわば統制原理である。この原理に縛られた人間が、いわゆる自己疎外化されることは、当然である。特にホワイト・カラーにおける人間行動にみられるように、一方で組織化と合理化の近代的ステップを歩みながら、他方でビジネスにおける単純責任負担という労働に従事することから起る自己喪失感と孤独化は、まさに「孤独なる群集(大衆と解してよい)」化を物語っている。(p8)


 もちろん大衆は、ファシズムの好餌となりやすい脆弱点をもっており、かならずしも政治への積極的・自主的参加はおこなわない。大衆化を、ファシズムによる非組織集団の非合理的な堕落過程とみる立場もあるが、しかし政治的状況における現代の大衆化の一局面には、リベラル・デモクラシーを一応形式的に克服したといわれる大衆デモクラシーの在り方の変質過程のなかにその本質をみる立場も考えられないであろうか。労働組合的な存在を媒介とした大衆が、主体的に個人の権威をふまえて政治的な成長をとげてゆくところに大衆化の実体をさぐりあてねばならない。しかし現代の社会的諸状況においては、このような形態の存続を可能ならしめる条件がかならずしも与えられているとはいえない。大衆デモクラシーが、大衆のより高度の合理性にもとづく政治の審判者たらんとする責任の主体者からはなれて、かえって大衆のなかに、政治的参加の意欲をそごうとする、いわばマイナスの力が、現代の社会的・経済的条件のなかに生れてきている。……ファシズム化の絵時期になりやすい脆弱な面をもっていることが、必ずしも大衆化を特色づけることではないが、しかし案外なところに、大衆を堕落させる陥穽がつくりだされている。(p11)


 (マス・コミュニケーションとマス・カルチュアの)発展と成立とが大衆社会形成のきわめて強力な要因になった(p12)


 経済体制の変化は、マス・コミュニケーションの性格を変質させる必然性をもっていた。それは、資本主義的な自由企業をそのタテマエとする以上、単なる世論形成のための資料提供という枠を超え、それよりも、可能な限りの読者・購買者を獲得しなければならない。……企業的性格を帯びれば帯びるほど、その機能は、マス・コミュニケーション成立の時代の機能から遊離してゆくのは、当然である。(p12)


 いずれにしても、一方において資本主義社会の不可避の条件として、企業性・商業主義的性格をもたなければ自滅するマス・メディアの運命を切りひらいてゆくために、一方では繁栄経済や政治的不安定社会に生きる人々の「消費文化」への欲求充足のために、大衆化の条件は全く出揃ったといえる。さらに、こうしたマス・コミュニケーションに依存して、大衆操縦を企図して、停滞的な旧基盤を維持しようとする政治権力が、マス・メディアの力を一方的に行使するチャンスを増大しようとする傾向が、先にのべた、マイナスの面としての、ステレオタイプ化された大衆形成を促進している。(p13)


 上述のことから、マス・コミュニケーションと大衆文化が、それぞれ大衆化現象を条件づけていることは、おそらく首肯できるところであるとおもう。しかし、それがいずれも、マイナスをもたらしているのではなく、むしろ新しい基盤において、プラスの力となっていることも理解できるところである。(p15)