読んだよ。

ハーモニー (ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)

ハーモニー (ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)

「権力が掌握してるのは、いまや生きることそのもの。そして生きることが引き起こすその展開全部。死っていうのはその権力の限界で、そんな権力から逃れることができる瞬間。死は存在のもっとも秘密の点。もっともプライベートな点」
「誰かの言葉、それ」
ミシェル・フーコー

(p283)

 大昔には「いじめ」なんてものがあったらしい。
 それがどういう状態を指すのかはよくわからなかったし、まだ十五になった時点では習ってもいなかったけれど、その意味はある特定の子供を何らかの手段で集団的に攻撃することらしく、とにかくそれはごく自然に社会から消えてしまった。<大災禍>の後では、子供という貴重な人的リソースに対する攻撃は、たとえそれが子供同士のあいだであってすら許されない。
 リソース意識。
 人はその社会的感覚というか義務をそう呼ぶ。または公共的身体。あなたはこの世界にとって欠くべからざるリソースであることを常に意識しなさい、って。「命を大切に」や「人名は地球より重い」の一族に連なるスローガン。

(p21)


北米での内戦に乗じて核が流出、世界中で核戦争の末、訪れたのは人々が健康管理ナノマシンを体内にインストールして健康管理を外注化するようになったハイパービオポリティクス(いわばビオガバナンス?)の世界でした、というお話。


結構面白かった。
SF的想像力を奔放さと緻密さの二軸で表すなら、後者に突き抜けた作品。手堅くまとめてあるだけに既視感もあったけど、上手くまとめたなという感のほうが大きい。
また、節々に前作『虐殺器官』の後の時代の話なのかな、と思わせるところがあり、その視点で読み直しても面白いだろう。


「人に優しくしなさい」という暗黙の規律を逆にストレスに感じる、という逆説を経験している人は多かろうと思うが、作中の日本含む先進国ではそれが(ゆるい「空気」であるがゆえに)ほぼ最強に近い強度で規律化されており、そのために自殺者が急増。
他害を減らすために躍起になったら自死にいっちゃった、という構図が、ネタばれになるが、個人の中にも鏡映しに現れる。意識・意思は競合する欲望の衝突と交渉の結果物であり、ゆえに非合理的な選択をする欲望をコントロール完了して完全な人間を作ろうとしたら意識が消えちゃった、というのだ。この相似形はなかなか面白い。


虐殺器官」を搭載している人間は放っておくと互いにブチ殺しあってしまうが、かといってコンフリクトを取り除けば人間でなくなってしまう。
じゃあどうすんの、ということになるが、作中でそこに答えは与えられない。主人公は最終的に全人類の意識の喪失、つまり超人類化を企てた相手を倒すのだが、それは個人的な復讐によるものでしかなく、主人公自身そもそも意識の喪失に対しては取り立てて思うところはないようだ。

世界がどうなっているかなど、わたしには関係がなかった。

(p342)


さて、それでは世界と人間のあるべき姿とは?
あるいはそんなものはない?
それとも、それについては考えない?