後藤道夫『戦後思想ヘゲモニーの終焉と新福祉国家構想』(旬報社、2006年)

ふりかえれば、そもそも20世紀の帝国主義戦争は、近代的諸価値の帝国主義的解釈(「文明」「効率」「国益」などを軸とした)をともなって行われており、いかにそれが野蛮で非人間的な内容をもったものであっても、それを前近代的とみなすことはできない。本書のモチーフの一つは、帝国主義戦争のような野蛮で非人間的な社会現象を「前近代的」なものと見なしたがる、戦後民主主義派の思想傾向の問題性である。(pp12−13)


 しかし、諸価値のこうした解釈転換に際し、戦後民主主義派は、保守派との主張と十分にかみあったヘゲモニー闘争をこれまで展開してきたのであろうか。私見によれば、「自由」について示唆したように、そこには巨大なすれ違いの長い錯雑した歴史があったと思われる。結論的にいえば、そうした歴史の根底には、戦後民主主義派の強い「近代」志向と、高度経済成長をふくむ戦後日本社会の現実の軌跡との複雑なズレがあった(p21)


 1990年代の本格的転換以前でも、1980年代の思想領域では、新自由主義への抵抗の諸要素が大幅に後退し、戦後思想とその系譜をひく諸思想のヘゲモニーの減退をすすめたと考えられるが、このことは、1960・70年代における、日本大衆社会の形成・確立にたいして、一部のラディカル派を除き、戦後民主主義派が全体として「無対応」あるいは無自覚であったことと密接な関係がある。日本型大衆社会における強い競争主義に本格的な批判を行なわず、なお、「近代」志向が持続したとすれば、自由主義と市場原理にたいする自覚的批判は弱いものとならざるをえず、このことは新自由主義への抵抗力を大きく削いだのである(p21)


 一言で言えば、戦後民主主義思想は、日本型大衆社会の形成・確立にたいしても、また、その縮小・解体にたいしても、一部を除き全体として無反応だったのである(p22)


 結論的に言えば、戦後思想の分岐・変容の過程は、開発独裁帝国主義への批判・反省として出発した戦後思想が持つ「近代」への強い期待と、高度な資本蓄積と全体としての「近代化」を実際にとげていく戦後日本の現実との乖離が、さまざまに拡大していったことの表現である(p42)


 日本型大衆社会の解体という新自由主義の主張をどう受け止めるかという問題は、戦後思想が1960、70年代以降に日本型大衆社会をどのように理解したかの問題と密接につながっている(p43)


 戦後思想を担った思想家群を、仮にマルクス主義者と近代主義者とに分類するとすれば、マルクス主義近代主義の分岐は1950年代後半からおきている(p44)


 この時代の近代主義者とマルクス主義者の一致点は見かけ以上に大きい。
 第一に、日本帝国主義の凶暴性と非合理性の基盤を除去するためには、政治・社会構造の徹底的な民主主義化・近代化が必要だ、という点での合意はゆるぎないものであった。開発独裁型の帝国主義日本にたいする批判とその変革の意識は、戦後思想のアルファにしてオメガである。……
 第二に、両者の共同戦線は……さらに、日本に残存する前近代を克服して「近代」を実現するということと、「近代」を克服する(=社会主義を実現する)こととを、連続的、予定調和的に理解あるいは期待する、というレベルでの思想的な共通性を基盤としていたと思われる。……
 マルクス主義者の場合、近代の実現と克服という、それぞれきわめて巨大な二重の課題は、「社会主義革命に転化する民主主義革命」という革命戦略によって、運動論上も、連続的・一体的なものとしてとらえられていた(p49)


 社会主義を容認する近代主義者と、半封建的要素を一掃するための民主主義革命を主張するマルクス主義者との間には、1950年代の後半にいたるまで、広範でラディカルな共同が成り立っていた(pp50−51)


 マルクス主義者が戦略的見通しをふくめて主張し、近代主義者が支持していたこの予定調和的把握によって、戦後民主主義派の知識人の多くは、近代市民社会への強い期待を持ち続けながら、同時に近代市民社会じたいの欠陥を超えた立場に自分を擬することができたのだと思われる(p54)


 本来、近代市民社会における「自由」を本格的に批判・規制することなしに、近代を克服することが不可能であることは、マルクス主義思想そのものの大前提である。しかし、自由の実現が眼前の社会にはいまだ不十分であるととらえ、しかも、自分たちが考える自由が、同時に、自由の規制によって実現するはずの将来社会に矛盾なく連なる内容をもつはずであれば、自由あるいは近代市民社会の本格的批判を行なう内面的エネルギーは出てこない(p55)


 近代主義者がマルクス主義の思想や方法を本格的に批判・論評しながら、日本の変革のための政治判断についても自立した動きを始めるのは1950年代半ばからである。……
 この時代は、支配層の戦前への復帰の志向が最も本格的に示された時期だったが、それとすれちがうかっこうで、戦後の民主的諸改革と国民主権の戦後憲法体制が国民に受け入れられ、定着しはじめていた。……
 しかし日本共産党は、戦後改革と国民主権の定着を過小評価し、さらに日本を植民地・従属国の一種とみなして、暴力革命型の戦略を採用して国民の支持を失っていた。……
 近代主義者はこの点についてより敏感であった。……近代化という点ではすでにある程度のものを獲得しているという感覚もまた鮮明なものとなっていた。……
 したがって、1950年代前半までの行動に示されているマルクス主義者のセンスとの差異は大きかった。こうした現状把握を背景として、むしろ問題は独占資本主義の段階の矛盾あるいは「大衆社会」的な諸矛盾のほうにある、という感覚が近代主義者の中で広まりつつあった(pp62−64)


 60年代を通じて、近代主義者は以下のように、産業化的近代化論者、「実体としての市民」主義者、市民的ラディカル、規範的市民主義者に分岐した。
 産業化的近代化論 ……
 近代主義内部の最大の分岐点は、この産業化的近代化*1を「近代化」の中心的な内容として受け入れるかどうかにあった。……
 さらに、60年代半ばまでは「民主的近代化」を支持していた近代主義者の内部にも、高度成長による社会変動によって生じてきた「市民的」な要素の評価をめぐって、60年代半ばから後半に大きな分化が生ずる。
 「実体としての市民」主義、市民的ラディカル、規範的市民主義 1966年、松下圭一は、高度成長による大衆社会化の進展のなかで、明治以来「はじめて『市民』が成立する社会的条件が成熟してきた」と発言した。……
 松下によれば、それまで戦後思想の脈略では規範的に考えられてきた「市民」が、大量現象として、「マス状況の拡大」のなかから、階級の存在形式をかえるものとして日本の現実のなかに出現し始めたのであり、そうしたいわば実体としての市民を基盤として問題を考えていくべきだ、ということになる。実体としての市民は端的に肯定的に評価されていた。
 これを「実体としての市民」主義と名づけるとすれば、その対極に、そうした「市民的」要素が拡大しつづける現実にたいして強い批判意識をもち、高度成長そのものにたいする拒否感を増大させていく「市民的ラディカル」派が形成されていく。……彼らは、大衆社会化によって民衆の受動性が拡大していること、また、そうした大衆社会化と高度成長を支えているのが日本の新たな帝国主義化であると主張し、そうした状況への根本的な批判と対応の能力を欠いた、戦後思想の地平そのものを克服することをよびかけた。……
 さらに、民主化的近代化論の潮流のなかでも、丸山眞男に代表されるように、高度成長によって現れた「市民的」要素と自分たちがそれまで主張しつづけてきた規範的な市民像との乖離を強く意識して、規範的な市民像と市民社会像を堅持しつづける潮流がある。……規範的市民主義とよんでよかろう。
 近代主義者のこうした分岐は、高度成長による日本社会の何かしらの近代化を自明のことと受け取り、それの内容的評価をめぐるものであったから、戦後思想の特徴であった近代化と近代の克服との予定調和的把握はそれとともに放棄されることになった(pp68−71)


 現在では、日本に大衆社会の成立をみる論者の少なからぬ部分が、その時期を1960年代と想定し、松下自身も後に「日本における《現代》が成熟する60年代」と発言している。もし、そうだとすれば、この論争は、いわば早すぎた論争という側面を持たざるをえなくなり、大衆社会が成立、成熟した時点で、再度、問題のとらえなおしが要求されることになる(pp109−110)


 松下は労働者階級の受動化の特殊現代的条件を強調するのだが、同時にこの問題を、デモクラシーの古典理念からの逸脱という筋で考えている。西欧の大衆社会論における市民→大衆、公衆→大衆というシェーマを受け入れているわけだが、このシェーマにおける主体は、あきらかに「市民」であり、欧米の議論ではその衰退への危機感が主要なモチーフとなっていた。マンハイムのように、大衆社会への変化を基本的には肯定的変化とみなす論者でさえ、否定的状況を克服してその本来の肯定的側面を生かす道は「啓蒙主義」の脈略で考えられている。
 こうした「市民」を主体とする変化の把握と、労働者階級を主体としたその存在条件の変化という把握とは、事実認識をめぐる主張の多くで重なり合うと思われるが、何よりもその価値評価の方向という点で大きな違いを見せるはずである。前者の筋では大衆社会の評価の基本はマイナス方向だし、後者の筋では肯定的評価が基本となるはずであろう。
 少なくとも松下が社会形態の変化の中心的内容とした圧倒人口量のプロレタリア化、大量生産、大量伝達等の発達による生活様式と文化の平準化、各社会層の政治的平等化、という点を念頭に置くならば、労働者階級にとってこうした変化は、あきらかに、巨大な前進と評価されるべきである。私見だが、なによりもこの変化は労働者階級(というより被支配階級一般)が、歴史の表舞台に恒常的に登場するようになったことを意味する(pp138−139)


 現代からみるならば、戦後の統治体制の一つの転換が1960年にあったと見ることができる。すなわち、「自由の直接的抑圧コース」あるいは「旧来の力による対決の支配形態」が後景にしりぞき、渡辺治の言葉を借りれば新憲法を前提とした「戦後統治形態」が採用され、やがて定着したのである。……
 60年代はこうした政治枠組みのもとで、農村から都会への人口の大量流出と、労働者階級の急激な増大が続き、高度成長による実質賃金の上昇とあいまって、松下の言う社会形態としての「大衆社会」が成熟する(p156)


 ……「大衆社会」の諸条件の成熟にともない、60年代は、前に述べた意味での、資本と労働のヘゲモニー闘争が本格化することになった。松下にならってこうした条件下での資本のヘゲモニー確保、つまり労働者階級の「馴化」を<大衆>化と呼ぶとすれば、労働者階級のほぼ全域にわたる<大衆>化は、60年代を通じては成立せず、オイル・ショック後の大合理化の時代を通じて一応の成熟をみることになる(p157)


 論証抜きで結論的に言えば、日本における<大衆>化は、福祉国家を媒介とした国家への包摂(大衆デモクラシー、大衆ナショナリズム)というかたちではなく、企業の「従業員」への福祉を媒介とする企業への包摂を中核とした形態で進行した。……
 このような<大衆>化メカニズムを想定した場合、ヘゲモニー闘争の主軸をなす領域は、企業における労使関係であったことになる。……
 こうした視点で60年代をみると、下山房雄が指摘しているように、「基幹産業の生産的基礎課程」での労働者支配のターニングポイントは60年代の半ばにあるという事態を重視せざるをえない。……60年代前半は、安保闘争の巨大な影響と、新卒の青年労働者の急進化などを背景として企業内でも闘争が続くが、60年代の半ばにいたって、大企業レベルでは労働側の劣勢が表面化するのである(pp157−159)


 「近代的」、「市民的」であることが無条件で進歩的であった時代は終わっている。むしろそうした「近代」「市民」の内容を批判的に吟味し、総体としてそれを超えることが求められている。
 高度成長を経て形成された独特の「日本型市民社会」=「日本型大衆社会」の性格からいっても、このことは重視されるべき。この「日本型市民社会」は労働者階級の急速な増大と、労働者階級のブルジョワ的な生活論理への組み入れによって成立したものであり、いわば労働者社会をおしつぶして出来上がった「市民社会」=「大衆社会」という性格をもっている(p179)


 日本の場合は国家主導の産業化、資本主義化、「近代化」、という伝統にもかかわらず、むしろ、労働者階級の圧力は高度成長の中で、企業のヘゲモニーを中心とする市民社会の側に吸収され、市民社会による労働者階級の馴化が進行した。高度成長の過程での、日本の社会福祉の充実を目指す闘争の圧力は、労働組合を通じた労働者階級の政治的力というかたちより、むしろ自治体をめぐる住民の闘争として現れた(p184)


 日本の労働者階級が労働者人口比で五割を超えたのは1960年であり、急激な労働者階級の増大と労働者社会の解体がほぼ同時に進行した。西欧のようにある程度の労働者社会が形成された後に「大衆社会」化が進行するといった順序ではなく、そのために、労働者の自前の集団性の解体という現象が、煮詰められたかたちで現れている。
 中小企業の労働者の「馴化」が目に見えるかたちになったのは1970年代の後半である。
 労働者社会が機能していないならば、個々の労働者はより直接に「市民社会」の成員たる「市民」という形式に自己を同調させなければならなくなる。経済的、社会的に、激しい競争と自己責任の論理を受け入れた「市民」としての行動様式が、すべての人に要求されることになる。
 福祉国家と対になった西欧型の「大衆社会」では、巨大労働組合社会民主主義政党というクッションを置いた「馴化」であったのに対し、日本型「大衆社会」は「市民社会」の論理を肥大化させた、いわば「市民社会大衆社会」とでもいうべき性格をもっている。
 こうしたある種の肥大化した「市民社会」は、権利主体、抵抗主体としてはきわめて脆弱な「市民」から成り立っている(pp196−198)


 市民主義ラディカリズム――日高六郎に即して
 悪しき「近代」がどのようにつかまれ、マルクス主義がいかなる意味でそれとたたかいえていないと評価されたのか。
 まず、日高には、1960年代の半ば以降、日本はアジアにたいして経済侵略を行い始め、帝国主義の第二の先進国にのしあがったという認識がある。彼にとっての「政治的ラディカリズム」とは「いま進行している日本社会の質的な変化、すなわちふたたびアジアへむかう日本帝国主義の再登場にたいする全体的な把握から出発しようとする立場」にほかならない。
 しかもその変化は、戦後的価値を壊さないかのような外観のもとで進行した。かくして「平和・軍事国家、民主・独裁国家、福祉・帝国主義、独立・国際反共国家」という状態は商事、柔軟な構造の管理社会が生まれた。
 こうした時代把握に先立つ1960年代の半ば、日高は先進資本主義国の民衆のなかに「私生活中心派」と呼べる広い層が生まれてきたことに注目している。
 要するに高度成長により、大衆社会問題が日本でも本格化してきたのであり、民衆の受動性が単なるイデオロギー的屈服のレベルだけではなく、その欲望の持ち方のレベルの疎外にも起因する以上、民衆が主体的民衆となるためには自己否定の作業が必要であると日高は主張する。
 なお、前近代批判と近代を超えることとの調和的把握の分解にとって、「大衆社会」状況のもつインパクトはきわめて大きい。民主主義の形式を大枠で維持したままでの帝国主義化と民衆の受動化がおきるならば、「民主主義的近代化論」はその内容を問われざるをえないからである(pp214−219)


 1970年前後の日高の発言を、そのラディカリズムのよってたっているところを把握する目的で概観した。おおまかにまとめれば、高度成長と一体になった国内の「大衆社会」化と、海外とりわけアジアへの経済侵略をすすめる帝国主義国への変化とを重視し、そうした状況に対応できていない戦後民主主義革命の諸潮流の思想形式を、直接民主主義の方向でのり超えるということになるだろう(p277)


 要するに、「高度成長と新憲法」によって生みだされた民衆の意識状態は、松下の場合、肯定的につかまれているのである。もちろん、日本の帝国主義化にたいする危機感はない(p235)




 激しい勢いで進んでいる新自由主義的社会改編への対抗戦略として、また同時に、近い将来の社会変革の目標として、新たなタイプの「福祉国家」を考えたい(p315)


 資本蓄積と社会保障を両立させることが、これまでの福祉国家型の階級妥協の前提条件であるため、国内経済の高い成長率の維持、したがって、その国民経済が世界市場のなかで有利な競走上の位置を保つことが、労使の共通の目標となる。こうした基本的構造のため、戦後福祉国家も世界市場における弱者からの種々の収奪体制を前提とした存在となり、「社会帝国主義」の歴史の延長上に位置づくことになった。
 異なる角度からみると、これまでの福祉国家が補完・介入してそれなりの平等性をその成員に保障しようと努めてきた「市場」は、本質的に国内市場であり、世界市場と国際関係については、経済競争における弱肉強食と「効率性」の論理、さらに軍事における力の論理が前提されていたといってよい(pp318−319)


 日本の知識人や民主的な運動の側でも、前近代的要素の払拭という課題意識が圧倒的な位置を占めており、福祉国家型の国家機構や社会編成を推進する強力なグループは、戦後直後にはほとんどいなかった(p325)


 自由民主主義を採用しながら大衆社会統合の形態が未定である、というある種の空白は1960年前半までつづいたが、この頃から、企業主義的な独自の大衆社会統合方式がその中核部分では成立しはじめていた。このことは第二段階の福祉国家に向かうはずの、高度成長期の労働者階級の圧力が、異なったかたちで社会的に吸収される回路が形成されたことを意味していた(pp326−327)


 戦後日本は、福祉国家型の国家介入とは区別される、「開発主義」と呼びうるタイプの介入を大規模に行なってきた。現在は、この「開発主義」型の国家介入と、国民経済のバランスの維持のための国家介入と、福祉国家型のそれが、ともに市場への国家介入として一括して批判され、削減されるという状況が現れている。われわれはこれを区別して、後二者を擁護すべきと思われる(p328)
 村上泰亮によれば「開発主義」は、資本主義を基本枠組みとするが、「産業化の達成(すなわち一人当たりの生産の持続的成長)を目標とし、それに役立つ限り、市場にたいして長期的視点から政府が介入することも容認するような経済システム」である(p328)


 日本の戦後民主主義運動は、全体として、日本の近代化の大きな特徴である、上からの近代化(開発主義もこれにふくまれる)がもつパターナリズムに対する反発・抵抗を、その大きな思想的源泉としてきた。「政・官・財」の癒着を批判して、開発主義削減に期待を寄せる世論を大きく支えているのは、こうした戦後思想の伝統だが、現在は、こうした伝統が、国民経済のバランスの維持のための国家介入と福祉国家型の国家介入の両者をともに批判・削減する世論へと誘導され、ねじまげられ、最大限に利用されている。
 もとより、規制一般や国家介入一般が除去されるべきなのではない(p330)
 

 欧米諸国の場合、この「開発主義」型の国家介入は問題とならず、国民経済保全型と福祉国家型の両者が新自由主義の標的となっている。新自由主義攻勢にたいする立場の分岐もより鮮明である。戦後日本の開発主義体質と、これに反発する戦後民主主義運動による自由主義の理想化傾向は、この分岐をあいまいなものとし、新自由主義にたいする闘争の顕在化を弱める役割をはたしている(p331)




 1980年前後からはじまる現代帝国主義の新段階になると、大衆社会統合の充実・拡大の歴史的傾向が停滞、あるいは逆転をはじめ、福祉国家帝国主義の関係が基本的に変化しはじめる。
 独占資本の典型的な形態が多国籍企業になったという点がもっとも根本的である。……これまでの福祉国家国民国家と国民経済の壁の内部で想定されていたため、こうした現代帝国主義多国籍企業インターナショナリズムは、福祉国家を聞きにおとしいれることになった(p340)


 大衆社会の再収縮のメカニズム
①戦後長期好景気の終焉と、「豊かな社会」段階に照応する第二段階福祉国家の高度な社会保障による財政膨張とが衝突し、国家財政の危機が生ずる。
②多国籍資本の一般化とグローバル経済の深化により、先進国でも国民経済の凝集力が後退し、グローバルな分業再編成によって、産業編成と労働編成の国内連関と均衡の弱体化がおこる。……グローバル経済をめぐる国民の経済的分裂が生ずる。
③先進諸国でも……資本にとっての好都合な環境づくりの競争が行なわれるようになり、帝国主義同盟の相互圧力もあいまって、国民経済にたいする国家の規制・統制能力と権限が削減される。……富の中心的実体である資本は国家のコントロールをすりぬけながら、それが活動する環境の維持と労働力の保全は国家の負担となる。
社会保障と各種公共的支出は、ますます、国内型産業と労働者の各階層間の所得の再分配に依存することとになり、納税と受益の比較によって、社会保障などの制度内容にかんする国民の合意が困難になり、政治的に弱い国民部分・階層の社会保障、教育支出、産業保護費用などを圧縮する圧力が高まる。
⑤これまでの階級妥協の中軸にあった、巨大製造業の犯熟練労働者の組合は、その力の基盤を掘り崩され、社会民主主義的合意の破壊にたいして有効な反撃ができない。
⑥経済グローバリズムの進展により、耐久消費財の大量生産=大量消費の国内サイクルがもつ経済的意味がへり、国内消費市場を保つための労働者の賃金維持、あるいは公共事業による需要形成という、国内での経済力の再分配を促す要因が後退する。
⑦上記の構造的諸変動によって、大衆社会統合を支える個々の諸領域が変容・縮小し、大衆社会統合は衰退に向かいはじめる。




 「新福祉国家」の新たな諸要素
①「革命」を回避し抑圧するための、大衆社会統合の強化を媒介とするタイプの「改良」を支配層が放棄 → 社会民主主義者等の漸進的改革派と共産主義者等のラディカリストとの共同が可能
②国民経済のバランスの擁護と国家によるコントロールの力の維持そのものが課題
③国民の大規模な経済的分裂 → 新福祉国家運動は多国籍企業経済に対立する広い国民層に基盤をもつ
多国籍企業と多国籍銀行の行動を広く規制する必要 → 強力な福祉国家連合による規制が必要
⑤新福祉国家運動は経済の世界的ヒエラルヒーの頂点部分の諸国内の平等を目指すという性格を超えるものではないが、途上諸国に必要な産業の育成・保護政策を押し潰す激しい自由通商主義への抵抗であるという点で、世界経済ヒエラルヒーの緩和と将来的な水平化を可能とする条件になりうる。
⑥高い経済成長率への依存体質から脱却するという課題・「市場」が「社会に埋め込まれた」状態の必要
⑦巨大な軍縮の必要
⑧冷遇される地域の住民運動自治体運動の必要


 日本型新福祉国家の課題(p357)
 日本型の福祉供与は企業社会統合および保守政治と行政による低効率部門保護とによって提供されていた。
 この縮小・改編と、さらにこれに密接に連動して、本格的な帝国主義国家体制の構築が進もうとしている。これも日本に固有の問題である。
 日本独自の課題
①日本の場合、新自由主義的改編は本格的な帝国主義国家体制構築と一体のものとして遂行されようとしている。
 ……平和問題と福祉国家問題を結合することは、日本の場合、とくに重要である。
 ……新自由主義的改編と日本の帝国主義国家体制構築の原動力は同一である。
 これを妨害することは多国籍企業の競争力を下げる可能性があり、国内経済の成長率にも影響がある。この点ではシステム全体のきりかえが必要となる。
帝国主義国家体制構築阻止の課題とならぶ、中心的な課題は、これまで企業社会統合に代替されていた第二段階福祉国家水準の福祉供与を、公的な社会保障の抜本的な拡充によって保障するという課題である。
女性差別撤廃
④開かれた大きな公教育の構築
⑤農業保護の緊急性


 「市場を社会に埋め戻す」こと(p368)
(1)「自己調整型市場」経済への自然発生的反作用の意識的組織化としての福祉国家
 もともと資本主義経済は、国家と社会による膨大なセイフティ・ネット抜きには存立できない(p371)
 自己調整型市場への反作用は、労働力の商品化の場面のみでなく、土地と貨幣の商品化についてもおきる(p371)
 20世紀社会主義の経験は、社会主義の実現には一国規模の搾取の廃絶だけでは足りず、世界規模の市場関係の規制・縮小という大きな問題の解決が必要なことを、改めて示した(p373)
(2)必要な諸要素の経済への「内部化」と生産の諸局面における格差の是正
 再配分が行なわれる以前の諸格差、すなわち高収益産業と低効率産業部門、上層労働者と中下層労働者、世界都市部分と産業的に遺棄された地域、などの格差そのものの緩和が行なわれなければならない(p374)

*1:ライシャワー、ロストゥなどらの近代化論をバックボーンとするアメリカ型の議論。戦後思想が追い求めてきた「民主的近代化」と対比される