清水幾太郎『社会心理学』・要約

第一章 社会心理学の発展

19世紀末に成立した社会心理学には二つの傾向がある。
一つは群集心理の研究を中心とするもの。これは19世紀末から20世紀初頭にかけてフランス、イタリアをはじめ西洋諸国で行われた。
もう一つは社会・集団との関係において個人を研究するもの。これは20世紀初頭以来イギリスと、特にアメリカにおいて発展してきた。

第一の傾向

群集心理の諸研究の傾向(ル・ボン、モーパッサン
1.群集行動の非合理性の強調
(「……人間は群集の成員である限りに於いて、極めて非合理的な行動を営むということは、敢えて当時と限らず、その後の群集心理の研究が絶えず繰返しているところであり、また、そもそも我々が日常の経験を通じて熟知し確認しているところである。……群集の行動を支配するものは、冷静な理性ではなく、却って盲目的な感情である」(p13))
2.群集の非合理性の強調は、その背景として個人行動の合理性を想定している
3.非合理的な群集が合理的個人の上にふるう圧倒的な力が問題となる
(「既に明らかなように、群集に対する恐怖は、民主主義の拡充への恐怖と重なり合っている。群集の恐るべき力というのは、政治的権利の平等のみを目指す形式的な民主主義を、社会的及び経済的権利の平等を内容とする実質的な民主主義へと発展させようとする民衆の力を重なり合っている。群集心理は、単に心理の問題でなく、社会の、政治の、歴史の問題である」(pp16−17))
4.群集という言葉は、およそ一切の社会集団を意味している
(「我々が群集のうちに発見する知的及び道徳的な低劣は、程度の差こそあれ、一切の社会集団のうちに行き渡っているものである」(p18))


「公衆」概念(タルド
タルドは、無組織的集団が群集に尽きるものではなく、他に公衆という形式が存在することに注意する」(p20)
思惟と創造の源泉は依然として個人に存するが、個人が社会から独立して存在することは不可能であり、社会生活の中でなお自己を見失わない条件を求めるとすれば、それは公衆の中にある。公衆の理性は、新聞(マスコミ)の提供する情報を個々人が吟味し、マスコミなどの用意する公共の場で対話を行うことによって保たれる。

第二の傾向

第一の傾向では背景であった個人は、第二の傾向では最初に現れる
1.第一の傾向で見られた「群集精神」の存在を神秘的実体として否認
2.個人は非合理性を抱えたものとして描かれる(本能論、本能の力の承認)
3.社会現象は社会特有のものではなく、個人の非合理性に由来する
4.空虚な合理主義的人間観を批判(特に心理学の怠慢として)


本能によって人間の行動を説明するという本能論の方式は受け入れられやすかったが、それゆえに著しい濫用を招いた。
「もし人間の外部に集団精神を設定するのが非科学的であるのなら、恣に人間の内部に本能を設定するのも、これに劣らず非科学的と称するほかはあるまい」(p29)


「結局、本能論に取って代わったものは、条件反射の仮説を基礎とする行動主義の学説であった」(p29)
……多くの行動様式は学習過程の産物であるという説


行動主義の興隆により、
1.人間の内部に想定された諸力のほとんどが否定
2.人格形成についての問題が出現
3.「本能/習慣/知性」という三つの行動の秩序について、人間の行動の大部分は習慣の秩序に属する
4.「第一次的集団」の観念が取り上げられる。人格形成においてもっとも重要な時期に、人間が家族=第一次的集団に委ねられていることへの着目


近代社会の特徴は、第一次的集団の衰退と第二次的集団=国家・階級・政党・組合などの優越が起こっていること

現代の社会心理学の問題

1.公衆、公衆的世界への批判
「公衆は、むしろ、巨大な群集と化しているのではないであろうか」(p36)
2.資本主義の文脈を避けていること
3.機械時代という条件の考察


行動主義者が信じた個人の知的機能は直接的接触の世界において意味を有するのに対し、現在マスコミが強制する間接的接触の世界は、この知的機能への信頼を覆すものである。


最近の諸傾向
1.本能論の復活
2.略
3.機械時代のマスコミの条件下での社会的な抑圧の問題
4.「習慣の秩序において危機に遭遇したとき、人間は知性によってこれを克服する」というのは明らかに理想的な上昇のコースであって、実際に万人が至るものではない
「私の言いたいのは、現代の社会には、我々がその一々について熟慮と選択とを重ねる余裕のない大規模な切迫した問題が数多く存在するということである。危機は知性の活動を呼び起こすよりは、我々をヒステリー的行動へ進ませる可能性が多いと思われる」(p42)
5.略



第二章 近代社会の原理

近代的集団と前近代的集団の区別

前近代的集団
・小数の成員(による不断の直接的接触
・成員は相互に何者であるかを知っている
・他の集団との間に正規・頻繁な交通を欠き、自給自足の世界を形成
・成員同士に、共同生活そのものに由来する言語を超えた深い直接の理解が存在


近代的集団
・個人が集団に先行
・機能は単純で限られている
・各個人は複数の集団の成員であらざるをえない
・間接的接触が決定的な意義を有している(一切は言語的形式のうちに合理化されかつ固定化)(p52)
・集団は限りなく増加・拡大することができる(p52)

近代的人間(p53)

「かつては一つの実体的かつ有機的な集団が社会であったのに対して、今は、近代的集団の限りない錯綜が社会である。
前近代的集団から近代的集団への転化は、明らかに社会的分化の過程を示し、また、同時に、それは人間そのものの分化の過程を示している。一般に近代的人間の特質と称せられるものは、ほとんどすべて右の分化の過程のうちにおいてのみ把握することができる」(p53)


近代的人間の本質……分化の過程においてこれを捉える必要(p53)
1.人間は自由である
2.この自由は人間が既存の集団に吸収されつくさないという消極的な意味にとどまらず、さらに自分の必要とする集団を作り出すという積極的な意味を有している(p54)
3.人間は常に目覚めた理性的存在である

接触の拡大

機械の発達によって直接的接触の範囲は急速に拡大していくが、やがてこの方向には越え難い限度が現れる(p56)
機械は同時に間接的接触の範囲も拡大する(p56)
しかし、機械が人間のもとへ運んでくるものは、実物のコピーでしかない(p57)

二つの世界

私に与えられている世界のうち、私を中心とする実物の世界はほとんど無に近く、その他のほとんど全体に近い部分は、コピーとして与えられている(p59)



第三章 現代の社会心
分化、拡大、機械化という近代的人間の本質ないし原理の見地に立つ限り、個人の知性・公衆の批判力・ビュロクラシーを含む集団の合目的性など至るところに合理性が保障される
社会心理学に固有な非合理的領域は発見することができない(p75)
→必要なのは単に本質ないし原理に照らすことではなく、多くの矛盾を含む現実に即して考察すること(p75)

集団間の無政府状態

家族と外部の諸集団、そして外部の諸集団同士の間には連絡や調和が欠けている(p80)
人間が相互に連絡を欠く複数の諸集団に依存せざるを得ない以上、諸集団の間の分裂あるいは衝突は、個々の人間そのものの内部的な分裂あるいは衝突となって現れる(p81)

「甲羅のない蟹」

人間は近代文明に固有な分化と純粋化との末に、著しく不安定な状態に立たされている(p86)
人間はその現実に即して考えるとき、例外なく「甲羅のない蟹」(集団的紐帯のない人間)である(p87)

マス・コンミュニケーション

コピーの作成、収集、分配が営利事業として行われているために、顧客吸引のため、万人の共通の原始的関心(性、恋愛、犯罪、闘争に関する諸問題)が重視される
→合理的な普遍性の代わりに非合理的な普遍性が現れる
→前に述べたコンミュニケーションの信仰は根本から覆される(p95)


「大衆の気持ちを迎える手近な道は、彼等の間に見出される、既存の古い価値、ないしは、すべての人間が共有する非合理的普遍性に訴えるところにある」(p100)


「自由企業の原則に立つ社会において、コピーの作成、収集、分配が大規模な独占的企業であり、一般大衆は消費者として、完全に受動的な態度をもって、一方的に流れるコピーの洪水を浴びているとき、一般大衆に関する限り、報道や宣伝の一切が政府機関によって握られている独裁政治の場合とほとんど異なるところはないのである」(p100)

社会的麻酔剤

世論(public opinion)とは「公衆の意見」の意である。
公衆はジャーナリズムの発達を前提とする集団であり、従って世論は単に多数の人々が共有する意見であるだけでなく、言語的形式のうちにある合理的要素の上に成立すると信じられている。
このような信仰があってこそ、世論は民主主義にとって基礎的な異議を持つことができる。
問題は、マス・コンミュニケーションの時代において、公衆は依然として公衆たりえるかという点にある(p101)


宣伝は多くの人々の回心を狙う方法だが、宣伝が最もよく大衆の回心を実現するには、その宣伝が独占的地位を占めていることを要する(p101)
複数の宣伝は相殺しあってその効果を減じあうが、人間は、宣伝の波に揉まれながら、やがて、客観的事実に近づいていく(p102)
人間は(コピーによる)催眠術にかけられながらも、それが提示する幾組かの環境を比較し選択する力を失わぬものと予定されている(p102)


しかし事実上、人間はこうした一つ一つの刺激に対して真面目な態度を取ることを断念している。人間は各々の刺激を比較・選択するという積極的・能動的な態度を捨て、むしろ消極的・受動的な態度を取っている(p102)

機械時代

三種類の人間
・ビュロクラシーないしピラミッドの頂点に立つ極めて小数の人々
・その下に立つ多数の人々。職員ないし人間的部分品としてビュロクラシーという機械の実質を形作る
・ピラミッドの底に横たわる国民の大衆あるいは平社員の大群。この人々は多くのビュロクラシーの下に立ち、同時に多くのピラミッドを支えている


第三の人々は、ピラミッドの広汎な底部を形作っているともいえるし、ビュロクラシーの外部に立っているとも言える(p110)


人々はニュースに対するのと同じように、完全に受身で数多くの集団に対する(p111)


自ら頂点に立たぬ限り、微妙な欲求や願望の多くの部分は、再び新しい組織の網から漏れてしまう(p111)

新しい群衆

第一の側面
人間は自己を諸集団に細分しているため、集団間の無政府状態は、直ちに人間そのものの分裂ないし無政府状態になり、同時に、エモーショナルな関係への飢餓あるいは孤独の感情を免れることができない
第二の側面
接触しうるほとんどすべてが誰かの手によるコピーであるために、人々は非合理的な普遍性へ導かれる
第三の側面
ビュロクラシーの外部にある人々にとって、人間の欲求・願望のための集団が逆に人間の上に超出する


これらの三つの側面を有する、夥しい個人と集団との群は、全体として、一つの群集にほかならない。
この新しい群衆を大衆と呼ぶことにする(p115)



第四章 適応
大社会(ウォーラズ)から大衆社会への発展は、社会の全体を大きな公衆に見立て得るかもしれないという予想から、これを大きな群集に見立てなければならないという絶望への転換を意味している(p119)


 我々はマンハイムのいわゆる「形のない社会」に生きている。
 新しい条件ないし環境は、人間に過重の負担あるいは極めて困難な問題を課していることが明らかである(p119)

集団への逃避

諸集団相互の間に美しい調和があり、人間の間に温かいパーソナルな関係が成立しているような望ましい社会を人間は欲している。
社会改革者たちの努力はすべてこの方向を目指しているが、様々な困難は多くの人々を絶望させ、あたかも現存の集団のあるものがこの理想的集団であるかのように考え始める(p122)


この逃避はまず家族へと行われる(p122)
しかし現代の家族は往時と異なり、ほとんどなんの機能も有していないし、残っている機能も日を追って失われつつある(p124)
家族を結び付けているのは愛情という一本の純粋だが弱い絆だけである(p125)


更に、現代の人間は国家へ向かって逃避を企てる(p124)
自己を偉大なもの、強大なものの一部分たらしめて、無力の感情から救われようとする一般的傾向のうちに、我々は「ファシズムの人間的基礎」(フロム)を見出すことができる(p126)


現代の人間は深く自己の無力を感じ、集団、社会、政府に対して、以前の能動的かつ反省的な態度を捨て、受動的かつセンティメンタルな態度へ移ってきた。合理主義からロマンティシズムへの転換と呼んでもよい(p129)


人間は特定の集団に対しては確かに受動的になりつつあるが、しかし同時に、この集団を通して、あくまでも能動的であろうとする。
自己の責任の外で、強大な集団そのものの責任において能動的であろうとする(p129)


国家への逃避は集団への忠誠を通して、人間の統一を回復せしめる。無数の集団を操るのに疲れた人間は、自己の全体を呑み込んでこれる集団を求める。
それに見立てられたのが内部的集団としての国家であった(p130)


以上は、資本主義社会がその経済的構造のゆえに不可避的に戦争を生み出すという周知の事実と相補うところの、そして、同様に戦争を不可避ならしめるところの心理的構造であるにほかならない(p131)

階級の問題

近代社会の本質から、個人は他の個人との不断の闘争を強いられる(p131)
が、個人はこの絶え間ない闘争にやがて疲れてしまう。それは個人間の闘争が不公平な条件で行われているためでもあり、また他の個人のみならず超個人的な集団と闘争せねばならぬためでもある(p132)
一方、そのために国家へと個人が逃避することで、個人間の闘争の代わりに国家間の闘争が現れてくる(p132)


これに加えて、第三の闘争の形式が、階級闘争である。
階級もまた人々が逃避する場所としての意味を含むが、同時に、現代社会の分裂への積極的適応としての意義をも含んでいることが重要である(p132)


1.階級は近代社会の構造それ自体から成立する(p132)
2.意識と行動との上での階級への所属の実現は多くの抵抗を排してのみ行われえるものであり、安易な逃避とは異なる(p133)


3.被支配階級のためのイデオロギー社会主義と呼ぶことが出来る。
社会主義は、社会的計量の原理に立って、一方で諸集団の間に調和を作り出し、他方、無力な家族に押し付けられていた混乱の処理を社会的規模において行うものである。
社会主義は人間を自己分裂から救って、これに新しい統一を付与するものであると言わねばならない(p133)

4.社会主義者が地区や職場に形作る細胞その他の小集団は、いわば人為的な第一次的集団の意味を有している(p134)

純化への欲求

現代の人間は不安と負担に耐えかねた結果、既存の観念(「偏見」「紋切型(ステロタイプ)」)によってコピーの真贋を判定し、自分の行動を規定しようとする(p137)
冒険を避け、無難を求める限り、人間は既存の観念のうちに逃避せざるをえない(p140)


マス・コンミュニケーションが支配している今日、すべての重大な事柄は曖昧である(p140)
重大でありながらしかも不確実なニュース、コピーを捌かねばならないという場合、人間は不可避的に憎悪や恐怖の感情によって導かれる(p141)
憎悪や恐怖の感情の多くは、外部的集団に対する感情である(p141)
既存の観念は外部的集団と内部的集団を明瞭に区別し対立させるものである(p142)
けれども、実は人間自身がこのような単純な区別と対立を欲しているのである(p142)

イデオロギー

このような事態に対して積極的対応の意味を含むものを求めるとすれば、イデオロギーの観念に新しい解釈を施すよりほかにない(p150)


今、思想は、イデオロギーという形式によって初めて具体的かつ現実的になることができる(p152)
イデオロギーという名称は消極的な評価と結びついているが、現在はむしろこれに積極的な意味を与えなければならない(p152)


1.イデオロギーは科学的要素を含んでいる。イデオロギーは科学的要素を含むことによって偏見から人間を救い出すことができる(152)


2.イデオロギーにおいて科学は単純化されかつ統一を加えられている。個人が手に入れることの出来る科学的知識の質量を考えれば、科学は単純化・統一化されることによってのみ、偏見に対抗することができる(p153)
知識は自己を偏見に近づけることによって、偏見に対抗する力を獲得する(p153)


3.イデオロギーは行動の原理を含む。単純化され対経過されてのみ、知識は人間の行動を支えることができる(p153−154)


4.イデオロギーは社会的体感の表現を含む。イデオロギーは今まで表現の機会を奪われてきた諸個人の経験と願望とに表現の機会を与えるものでなければならない(p154)


補足的注意
1.イデオロギーが神学上の教理のごとき不可謬性を有するものとされる危険。これを回避するために、学者自身が、その知識が現実の力となるためには単純化と体系化が不可欠であることを承認し、この意味でイデオロギーの科学的充実に向かって努力すべきである(p154−155)
2.イデオロギーもまた、マス・コンミュニケーションの手段を利用しうることが肝要である(p155)

機械化の拡充

もし現状に対する積極的適応の形式を求めるとすれば、それはビュロクラシーないし合理性の拡大と貫徹のうちにのみ見出される(p162)
機械化、官僚化、合理化は、その現実がいかなる混乱を示していようとも、一つの進歩である。それは資本主義社会が生み出した一つの進歩であり、社会主義社会によって継承せらるべきものである(p162)
機械時代は我々の運命であり、また我々の条件であって、我々はこれを受け入れねばならない(p162)
現代の不幸は、ビュロクラシーの支配がはじまっているところではなく、かえってそれが不足なところにある(p163)


機械化、合理化、官僚化、計量化の拡大および貫徹というのは、戦争および勝利という伝統的な目標、また国家という伝統的な規模を超えることを意味している(p164)
国際連盟国際連合が追求してきた目標は、究極において、世界全体を一つのビュロクラシーとして合理化する方法を含むものと見なければならぬ(p165)
一国家内部の問題が武力以外の手段によって処理されるように、世界全体を包む合理的組織が確立されなければならない(p165)
世界が一つのビューローになることが要求されている(p165)


同じ機械化でも、その目標が戦争と勝利にあるか民衆の福祉にあるかによって、結果はまったく別のものになる。
民衆の福祉のための機械化の進行によって、資本主義社会がその経済的構造のゆえに戦争を必要とする物質的側面も、民衆が社会的あるいは集団的な無政府状態に耐えかねて戦争を欲するという心理的側面も、同時に除去されつつある。
社会主義は、機械時代に向かって積極的適応を試みようとする者にとって、最後の言葉となる。
個人の自由や創意は、機械化および合理化の拡大・貫徹を通して復活する(p166)